間違って消したブログをまたやってるブログ
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1
ルージュは玄関の扉を開けた。
溜息をひとつ。
「あら。おかえりなさい、ルージュさん」
顔を上げるとそこにはお付きの者を伴った海神がいた。
「調子はどうかしら」
首を少し傾げて言う。
真っ直ぐの髪、優雅な仕草。
これぞ、上に立つ者の見た目という感じである。
「体に不具合は起きていない?」
「あ、それは、大丈夫です」
「それは良かったです」
「お母様―、と」
玄関ホールの更に奥から来たのはこの海神の三番目の息子であった。
ここに来ているなんて珍しい。
ルージュは話しかけはせず、目礼だけした。
明るい髪の色、可愛がりたい者を刺激しそうな素直で快活な性格が滲み出ている顔。
よくもまあそんな似合った体が見付かったものだ。
それとも、内面の影響で外側が変わったのだろうか?
そこへ二番目の息子がやってきた。
三男とは違い静かな空気が流れている。黒い髪、特徴のない服。
柔和ではあるが何者も寄せ付けない静かな笑顔。
「アキは?」
三男が海神である母親に聞いた。
「用事が終わってからだそうで、外で待ち合わせの予定です」
「そっか。楽しみだなー」
「これからお食事に行こうと思っています。カイトはどうしますか」
「あ、アキからだ。今終わって向かってるって。早く行こうよ」
「用事があるので」
次男は少しだけの笑顔のまま首を横に振った。それで会話は終わったとばかりに皆の足が動き出し、ちょっとした集団は玄関を出て行ってしまった。
ルージュは心の中で一息ついた。やはり緊張していたようだ。
さてやっと自分の部屋へ戻れると思ったとき、カイトと目が合った。
「ね、ところでルージュはこのあと時間ある?」
「え」
「どこか一緒に出掛けない?」
「さっき用事があるって・・・」
「用事は終わった。ルージュは、暇?」
「ええ、まあ・・・暇かな」
ほんの気紛れだ。暇なのは本当で、だからこの不可思議な扱いをされている海神の次男を観察してみようと思った。
「よし、じゃあ外で合流! 待ち合わせというものをやろう」
「何、意味わかんない」
「時間は二時間後がいいかな? 場所は携帯端末に送るから。山登りはしないけどたくさん歩くから歩きやすい靴と服装がいい。じゃあ後で」
清々しい笑顔ときれいな流れで予定は決まり、さっさと行ってしまった。
ルージュには相変わらず考えが読めない性格の持ち主だった。
2
この体に魂を移してからまだ数年。
人の数が多くなり、魔の者と呼ばれる人ではない生き物の生存圏が無くなりつつあった。そこで人の体に魂を移し、乗り移ろうと考えた者がいた。人の中に溶け込むのに抵抗がある者、人に成るのがそもそも抵抗のある者・・・。賛否両論あったものの、ともかく技術は確立し、魔の者は人へ乗り移って行った。
科学が進み、陸地に居ては捕まるのは時間の問題となった。魔の者たちは海へと追いやられ、そこが最後の地となっていた。海神はもともと海を統率していた者だったため、海へ逃げて来た者たちに諍いが起こらないようにしたり場所を作ったりとしていた。自身も乗り移り、陸へ上がってからも乗り移った者たちが人の世に溶け込めるよう手配する役目をそのまま担って今に至る。
ルージュも乗り移った者だ。人の体はどこから手配しているかは不明だが、死体を使っているらしい。乗り移る順番はまちまちで、見た目と精神が似通った体のほうが上手く馴染むらしい。今も順番を古くから待っている者達がいるらしい。
らしい、らしい、という噂や技術の話ばかりで、実のところルージュも詳しくはわからない。知っているのはこの組織が「館」と呼ばれている事だけだ。
どこに行くのか見当も付かないまま待ち合わせの駅前に到着。
既にカイトは待っていた。先程よりは明るい色合いの服装でどこにでもいる人間の若者という出で立ちだ。
海神の次男であるカイトとは、館の敷地内に住んでいるので当然顔は知っているし話したことはあるのだがいつも挨拶程度。あとは誰かを探していたりのときで、二言三言交わした事があっただけだった。だから今回の誘いは珍しい。
「やあ、待ちくたびれちゃったよ。もしや来れないと思って不安になっちゃった」
「二時間ここに居たんですか」
「まずは電車に乗ろうか。・・・乗り方はわかるね?」
「はい。勿論」
そう返すと満足したように頷き改札へ続く階段のほうへ向かった。
「最初の目的地は住宅街にある雑貨屋さん。なぜか人気がある。特に大きい最寄駅でもないし駅から少し遠いのに、だよ。気になる」
「はあ・・・」
電車が来るまでの会話がこうだ。降りる人を待ってそのあと乗り込む。電車内は比較的空いていた。ドアの近くに二人は居場所を決め、ルージュは外を眺めた。ふとやや後ろにいるカイトが気になって覗いてみると、あちらもこちらに気付き「ふっふっふ」という声は出ていないものの、そういう顔付きをしてきた。どういう反応なのかはわからない。
小売店が駅前に少しだけあるという、住宅街の普通の駅だった。そこからまた歩いて目的の雑貨屋へ向かう。カイトは携帯端末を確認していたがすぐに行く方向が決まった。事前に調べていたようだ。
線路と平行するようなまっすぐな道だった。隣の駅との真ん中あたりまで歩いただろうか。そこに雑貨屋はあった。建物は白く、少しの植物で彩られていた。反して中は暗く、雑貨がひしめき合っていた。どれも非日常を演出する変わった物ばかりだった。具体的には魔法道具みたいな。創作物の中にしか登場しないような華やかで煌めいていて、日常には全く必要のない物。でも人の心が躍るのだろうというのはルージュにもわかった。
店内に品物は多いものの狭いのですぐに見終わってしまった。気が付くとカイトは外にいた。何も買わなかったようだ。良いなと思った物はあったが買うまでは行かずルージュも店を出た。
「次はどこに行くの?」
「次はね・・・」
例の謎の笑みを浮かべて次の行き先を告げられた。
4
「いえ、あの・・・」
「なんだ」
「うーん、言いたい事はあるんですけど、どう言ったらいいか考えています」
「いいよ。はっきり言うがいい」
「こんな事して意味あるの」
ルージュは素に近いように、ぶっきらぼうに言った。
「だって、相手に感謝しろとは言わないけど、全然報われないし」
「ふっ・・・。お前、我々のしていることをいつもそんな風に思ってたのか」
明らかに馬鹿にした言い方だったので振り返った。
「普通、それ言わないだろ」
そう言って笑う。犬の顔で笑っているというのは間違っているかもしれないが、人と同じような思考を持つ彼は確かに笑っている。
「お前、変わっていると言われないか」
それは、言ってくれる相手が存在しないと起きない現象で、そして「失礼」に属する言葉を言ってもいいという親しさを持つ相手が存在しなくてはならず、そして彼女には存在しない。しかしこれを言うと彼はますます自分の発言に自信を持つだろう。そのくらいは予測出来る。
そうこう考えている間に、その沈黙をどう取ったかはわからないが彼はまた笑った。上司にあたる存在だがあまりに失礼ではないだろうか。
そして、「失礼」な扱いをしてもいいと認識されたことが心地良かった。
以前見かけた時と印象が違った。あれは仕事中だったので仕方がないとはいえ、いざ自分には違う面を見せてくれて、それは、なんという感情かよくわからないが、悪い気分ではなかった。
しばらくして、この仕事場が閉鎖することになるという知らせが正式に出た。
以前からその噂はあった。そのため早い人はもう次の仕事を探していた。もしくは決まって辞めて行った。閉鎖の直前は数人しか残っていなかった。
「次の仕事は探したか?」
「いえ、まだです」
笑いながら答えた。
仕事なのに楽しいと思えるこの時間に、別の事を頭の中に入れたくなかった。もう就職活動をしなくては収入が途切れる。貯金もそんなには無い。
でも不思議と危機感は感じられなかった。
最終日は事務所の撤収作業。これも捨ててしまうのかという物まで全て、ありとあらゆる物を捨てまくった。最後には制服も捨てて帰った。
次の仕事が決まるまで遊べると思った。
仕事が終わった解放感からか昼まで寝て、その日は西の端の朽ちた社にふたりは来た。
眷属二体がこの神域の入り口に陣取っていたらしいがその像は片方が崩れている。
もう片方は何も乗っていない。台座だけだ。
「他のお仲間はどうしたの」
「あやつらは・・・逃がした」
遠い眼をしている。
「ここから解放した。あやつらならばどこでも生きていけよう」
社の近くまで来て彼が言った。
「そこを見ろ」
祠の中を覗く。以前と同じで中は空っぽ、神が宿るという依代がない。それがないと神に属する者は土地に留まることが出来ない。どんなものでも良いわけではない。
「ここの神はとっくに死んでいる」
「そう・・・」
「遠からずどこか他の地へ行かなければならない」
そう言ってこちらの顔を窺う。
「まあ、すぐにではないが」
多分自分は安堵の感情を外に出してしまっただろう。
「はあ。暗くなってきたな」
「今夜ここに居ていい?」
「おいおい・・・。寒いぞ?」
「こうしていれば大丈夫」
ルージュは跪いて、思い切って犬の首に腕を回した。
「なんだ、お前、私のことが好きなのか?」
肯定出来ない。
それはとても出来ない。
だから心底困って、苦笑してます、という顔をした。
何日かに一度会い、それから数日ぼんやり過ごし、また会う。
地元なのに行ったことのないという大きな公園へ行ってみたり、朝の海を見に行き、夜の海の波を聞いた。終電の終わった線路沿いを話しながら何時間も歩いたり、いつも通り過ぎていた店にも入った。近場だけだがどんな所も行った。
5
相変わらずの深夜に寝る生活。明け方に熱が出るのだ。のどから熱が発せられているようで、それは決まって明け方だけ。日中は至って健康でその他はどこも悪くない。
しかし耐えきれず診てもらうと原因は、遠回りに不摂生が原因と言われた。
そういえばとても体が重い。気分や体調ではなく、物理的に。
人の体は面倒くさいのを忘れていた。
腫瘍も出来ているようで、これを切除しなくてはならない。
彼とはもう何日会っていないだろう。あちらから連絡もない。
これまでで一番離れている気がした。実際そう。
多分、心も。
なぜかそう思っていた。
仕事を辞めて2ヶ月が過ぎている。
次の仕事は、探そうともしていない。
体調が悪いということもあって、もう潮時かという罪悪感や色々な考えがぐるぐる湧いてきた。この数日何をしていたかと訊かれて「何も」と答えると、きっと落胆や軽蔑されるのだろうなと予想した。
気になってくると連絡をしたくなるもので、連絡してみると「久しぶり」と返ってきた。
いつものぼんやりとした時間に会うことになった。
会えるのは嬉しい。楽しみだった。
「何してました?」
向かいの席から笑って答えてくれた。
「色々。そちらも何してた? 次の仕事は?」
色々とはなんだろう。教えてはくれないだろうかと思う。
「いえ、まだ・・・。病院に行ってました」
「病院? どうした?」
「実は、明け方熱が出るんです。明け方だけです。あ、あと、腫瘍があって。悪性ではないです。でも取らないと無くなりはしないって。人の体って本当面倒」
「そうか。あれか・・・。結構悪かったのだな。いや、実はいつ言おうと思っていたのだ」
「なっ」
顔が紅潮していくのがわかった。
「最初に言ってくれれば良かったのに!」
彼は困ったような笑った顔をした。
「いや・・・傷付くと思って」
「そういうのは、言ってください!」
どうして一番最初の時に言ってくれなかったのだ。自分ではわかりづらい箇所なのに。最悪ではないにしろ、慣れていない体で普通ではない事態に陥っているに。
体裁や綺麗さを気にして言わない、指摘してくれない、一緒に解決しようとしない。
もっと最悪な事態になるということに気付かない?
そんな筈はないだろう。彼は馬鹿ではない。
なるほど。この「良い状態」を壊したくないのだな、と思い付く。
これが彼との関係。
良い所しか見せないし、見ない。
ついでに自分の事情や深い所を見せてはくれない。
ぼんやりな時間のぼんやりな場所のレストラン。
このふたりの関係を、他に誰が知っている?
それから手術で(三十分ほどで終わった)具合が悪くさらに日にちが経過する。
落ち着いたら連絡が来て、また会うことになった。
夕方が始まった時間。平日なので街はまだそんなに混んでいない。
「この地を去ることに決めたよ」
ルージュは内心衝撃を受けながら表面上は静かに受け止めた。
「新しい地を見付けたんだ。良かったですね」
「この辺りの居場所のない者たちも一緒に行くことにした。楽しみだよ」
ルージュはジュースを飲んだ仕草をする。ストローをゆっくり回す。氷が音を立てて回る。
「もともと私はこの地ではあまり力がなくてね」
人の信仰心で力を増すのが神に属する者。神属の力が弱いということは、ここの人間達は神への信仰が低いらしい。
でも生きている。普通に生活が出来ている。
それは人間が、神がいなくても生きていけることに他ならない。
「しかしそれは良いことだ」
その昔、祠を破壊した人間がいてその者が死んだ頃から力が弱まったという。
「一応先に言っておくが、そやつは本当に単なる事故死だ」
店を出てぼんやりと歩く。前より、並ぶ距離が遠い。
どこに歩いているかは話し合っていない。けれど足はどこかへ向かっている。
民家の庭先で剪定した枝を束ねている男性がいた。老化し動かなくなってきた体をゆっくりそれでも動かし、束ねる作業をしている。
彼の歩みがゆっくりになる。
ルージュは少し離れて歩き、それを見ていた。
最初に言っていた手伝うって、何をだろう。
何をどうやって手伝うというのだろう。だってあなたは。
そしてルージュは歩き出した。
「お手伝いさせてください」
老人に話しかけた。犬のほうには視線を合わせない。
ほどなくしてその作業は終わった。
「これまでのことを糧に、お前は成長すればいい」
「こんなことをしたって、人間は何も変わらない」
「ここの人間達に礼がしたいと、何かしたいと思うのが普通ではないのか?」
「でもあなたの声は聴こえていないじゃない!」
「ではどうすればいいのだ?」
「別に、何も。しなくてもいいじゃない。科学や文明がもっと進むとそんなものを信じる人間はこの先絶対少なくなる。怖れながらも、自分達の生活に楽しくなって、忙しくなって、遂には信仰の対象も変わる」
「では、今生きている彼等はどうしろと。変えられない者たちを見捨てろというのか」
「彼等はもうどうにもならない。永い寿命を持つ神属だというのに、もっと大きな流れを考えることが出来るのに、どうしてそんなに待てないの」
「彼等の時間は短いのだ。あっという間に老いてしまう」
「私達だって、転機を迎えている。そのうち同じになる。だから何もしなくていいじゃない」
「そんな寂しいことを言わないでくれ。そこは直したほうがいいぞ」
「・・・」
「本当はあの時、何か出来ることはないか、聞いて欲しかった」
「・・・」
「もうすぐ、もうすぐ出発する。あいつが見付かったのだ。今度こそ・・・」
天を仰いで言った。
「お前はきっと、この先もっと仕事をして」
「・・・」
言いながら先を歩いている。
「そこで好きな相手が出来て」
「・・・」
地面を見ていたが、こちらを向いているのがわかる。
「大丈夫。お前はこのさき生きていける」
「・・・っ」
口が、手が、動かない。
それなのに目からは涙が止まらず。
「お前のそんなところが好きだったよ」
足は無意識に前後に動いて歩行を完成させている。
全く別の誰かが動かしているのではないか。
頭の中は逆に冴えている。冷め切っている。
なのに、
それなのに、
外部に自分の感情を表すことが出来ない。
言いたいことを言わせていることに腹が立ってくる。
もうそのまま自分の世界に浸って、言うことを言って、
さっさと消えてください。
ルージュはもう帰ることにした。
それなのに彼は、嫌になることに、後をついて来た。
どうせ夜道を心配とか、さっきの事が心配だとか。
聴きたくない。
そんな安い感情は要らない。欲しいものはそれではない。
それがわかったのだから、もう彼に用は無かった。
時間の無駄というほど。
それくらい瞬時に切り替えた。
切り替えることが出来た。
嘘ではない。
嘘ではないけれど、しばらく泣くことになるだろう。
大抵、そうだと知るのはもっと後になる。
自分が向けた感情と同じ種類を、同じ強さで
今後誰か向けてくれるだろうか。
現れるだろうか。
それなのにこんな姿になってまで。
この世界にいる意味はあるのか?
ルージュは走り出した。
あちらは走っただろうか。だけど振り向かない。確認はしない。
角をめちゃくちゃ曲がり、一軒の民家に気が付く。
成長して道路に庭木がはみ出ていた。そこに出来た影にしゃがむ。
息を殺す。
動悸は上がっていたけれど恐ろしいほどに早く鎮めることが出来た。
何かが通り過ぎる音が、したように感じた。
自分で振り切っておいて、この頭脳と思考と感情は、まだそれを想像するのか。
背後で物音がした。
民家の居間の大きな窓から人が、こちらを見ている。
家の灯りで逆光になっていて、表情はわからないが男だ。
面倒な眼球だと思考する。
騒ぐな、と言うつもりだったけれどあちらは何も言わない。
そうだろう。涙を流して酷い顔になっているからだ。
「大丈夫ですか?」
返事に微笑んで、そこから走った。
もちろん注意を払った。
けれど誰にも遭遇しない。
疲れて歩き出す。
静かに家路へ方向を転換した。
あれだけ走ったのにどこにいるかおおよそわかる。
道は繋がっている。
めちゃくちゃに行っても、どこへ行っても。
また考える。
脳がまた考えている。
何をどう考えて行動しても、後悔しか生まれないのは目に見えていた。
でも。
走った。
西へ。
走って走って。走った。
光が見える。
まだ、間に合った。
朽ちた社の傍で。淡く。
もう消えそうだった。
声は、出せなかった。
叫べば届きそうだったけどこの期に及んで、悔しくて。
手を伸ばす。
全然届きそうにもない距離で。
あっけなくそれは消えてしまった。
辺りは深淵の闇。少しの灯りもない。
空以外には。
要らない、というより、あちらから要らないと言われたのだ。
余地などない。
最初から無かったのだ。
精神の中を確認する。
もう手遅れの部分もあるけれど、大半は無事だった。
私に、神はいない。
1
人の思考を持つ者は、人と変わらないのではないか―――
昔、誰かが言った。
海。遠くに陸が見える。
彼女は服を着たまま浮かんでいた。今日は靴まで履いたままだ。
波に揺られ、何をするでもなく、頭の中でも仕事をせず漂っていた。
そこに声が届く。
声と共に不鮮明ながら、映像も脳内に浮かぶ。
しかしそれはすぐに消える。
仕事だ。
「わかった」
声に出し、簡単に頷く。
別に断ってもいいのだ。
だがしかし、断る権利も道理も立場もない、と彼女は常に腹の底で思っていた。
ここからだとどのくらい時間がかかるか考える。溜め息しか出てこない。
ようやく反転し、泳ぎ始める。
ここは一人になりたい時に来るのだった。
陸の上はどこかしら、誰かがいる。
陸の上は人がたくさんいる。
肩にかけていた布を頭に巻いた。彼女の赤い髪色に、初対面の人はふと目を向ける。最近は退色し茶色に寄っているが、それがなんとなく気になるのだ。だから人の前に出るときはそうしている。
目の前の林から気配がした。迎えだとすぐにわかる。映像に出てきた奴だ。今回の依頼主。全体的に白い。
互いを認識する。付いて来いとばかりにすぐに背を向けられた。
「言っておくけど」
先手をとる。
「私は普通の人間なんだけど」
「わかっている」
犬が、首だけこちらに向けて言った。
「あ、そう」
聞いているなら話は早い。それをわかった上での自分への指名なんて。一体どんなくだらない内容かと考えたが、やめる。
薄暗い森の中を歩く。
目の前の人物は樹の根を避けつつ器用に歩いている。四本足は歩きやすそうだ。それについて行く。
第一印象は犬。けれど犬よりは大きくどちらかといえば狼に近い。
「まずは村を案内しよう」
村へ方向を向ける。
礼儀だろうと先にされる前に名乗った。
「ルージュと言います。あなたは何と呼べば良いですか」
「名は・・・。なんとでも呼ぶがいい」
ルージュは以前から彼を知っている。
「どうだ、こちら側の生活には慣れたか? 色々やっているのだろう?」
「はい、大体やったと思います。だけど時々有り得ない習慣に遭う」
「ははは。あれは、そう、理解しがたい。理不尽で意味が不明だな。そしてそれを普通に、生活に溶け込んで価値観として植わっているときたものだ。人間とはつくづく」
何か思うところがあったのか、そこで一旦言葉を切った。
「今までどんな仕事を請け負った?」
自分のことを知っているのか。
言葉をきちんと交わすのも二人きりになるのも初めてだった。
ルージュが答えようと言葉を整頓していると、彼は答えを聞く前に言い出した。
「お、ふむ。あの石をどかしてはくれぬか」
彼女が物体を確認していると、
「なにぶん、この様な体なもので」
と言う。尻尾が一度、大きく揺れた。
鼻から息の洩れる音がした。自分の冗談で笑ったのかもしれない。
見ると民家の庭石が道にはみ出ている。持ち上げることは出来ない大きなものだが動かせないものではない。引き摺って押してなんとか動かし、他の石と並べて置いた。彼女の体で動かすにはそれなりの力が必要で、地面に這いつくばって全身の力を込めたのだ。その一連の作業が終わり、彼に向き直ると話始めた。
「ありがとう。とても助かった。ここは年寄りが多いからな。だから我々がやれる範囲で出来ることをやってあげたいのだ」
「それは、義務? あなたがここを管理しているから? それとも、愛着?」
「両方だよ。というより、そういうことはあまり考えたことはないがな」
そして最初に向かっていた方向に体を動かした。この辺の動きは普通の犬そのものだ。
「この村の、ここからちょうど反対側になるが、一番西の端に祠があって、そこが根城だ。まずはそこに向かうとしよう。話はそれからだ。何、すぐだ」
ということなので歩く。彼の後ろをついて行った。
この村は海からの一本道沿いに家が建てられた歴史のようで、その家の群集を離れたら畑ばかりだ。砂浜はあるがそういえば港は見ていない。塩害があるだろうに、畑をやっているのかとにわかに信じがたかった。
工場の様な場所の前を通った。そこに女性たちの集まりがあった。
大きな段ボールがある。それを皆で開けて中を見ているのだ。
声が大きいので会話が聞き取れた。
なんでも、中に入れる部品が余ったそうだ。
つまり、入っていない箱があるということ。
犬が立ち止まる。
「いや、いい。お前は先に行っていろ。私は、手伝ってから行く」
「・・・」
「迷いはしないさ。そんなに何もない」
振り返って言い終えるとあちらに向かって行ってしまった。
ルージュは黙って、祠へ向かった。
祠に着いた。
人家が終わり、もう村の終わりという少し手前。短い草だけの少し広い空間にそれはあった。
その空間を守る門番だと思われる石像が2体。片方は崩れていた。
小さい祠の両開きの扉が今にも取れそうになっていた。
中を覗く。何も入っていない。
時刻は夕暮れに近づいていて、今日の作業はもう出来そうになかった。
少し待ってみたが彼は来ない。更に待った。
その間、近くを通ったのは人間二人で、どちらも老人だった。
夕日の色が無くなり黒が混じってきた頃になったので帰ることにした。
2
次の日、普通に出勤。
「それでは作業の続きをしよう。やることは沢山あるのでな」
そこは普通の部品工場で、働いている者の大半は人だが、ルージュと同じような類もいるのだ。大体が期限の付いた雇用で、しばらくするとメンバーが入れ替わってしまう。それでも作業にはそこまで支障は出ない。そんな簡単な仕事。コミュニケーションが必要不可欠、といえばそれまで。それだけあればここではやっていける。
そうしてしばらく働き始めて、通勤も着替えにかかる時間も慣れてきた頃にそれは起きた。
ロッカーの上に飲み物の缶が乗っていて、それにケチを付けられたのだ。
ゴミを処分しろ、と。
あなたがコーヒーを飲んでいたのを見た人がいる、と言われた。言ってきたのはロッカー室の中で人の女だ。一緒に頷く女を後ろに連れていた。
まったくの誤解で、それは誰がどう見てもかなり以前から存在している埃の埋積量で、もちろんルージュの指紋すら付いていない。
飲んでいるところを見た奴を連れてこい、と思ったが無駄だろう。
あまりの馬鹿馬鹿しさに呆れて、言葉が出て来なかった。
人はあそこまで馬鹿な生き物か?と。
ルージュは決してそれにさわらなかった。休憩時間も細心の注意を払い、その者たちとその関係者に近づかない。休憩場所も変えなくてはならなかった。もっと億劫だったのは勤務時間が終わり、帰る時。ロッカーで会わないよう、時間をずらさなくてはならない。居残るという手段をとった。これはさすがに時間の無駄だったがどうしようもなく、職場でだらだらと時間を消費した。
そうすれば数日で目に留まる。
他者に話せるという解放感からか彼に馬鹿正直に話してしまった。
「嫌がらせ?」
犬は顰めたでも笑っているでもない表情で言った。
「そう。女ではよくあること」
なんでもない風に見せてこの話題を終わらせた。携帯端末を見る振りをする。
彼はそのまま帰らず、そこに留まっていた。近くではない。けれど自分達の作業場のいつもの範囲だった。彼も何かで時間を潰していた。
適度な時間が経過してルージュは立ち上がる。
「帰るのか?」
「はい、お疲れ様でした」
「お疲れ」
次の日も次の日も。彼は一緒に居残った。
特に会話するでもなく。夕方の光が差し込む誰もいない作業場で。
そうして遂に、出口で遭遇する日が来た。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
「歩き?」
「ええ、そうです」
「あっち?」
「あっちです」
ふたりは歩き出した。いつもよりかなり速度が遅い。
ひとりの時は速くなる、ということがわかった。
その帰りは、今までどんな仕事をしてきたか訊かれた。決定的な沈黙はない、というよりもあちらがあれこれ話を出してくれたのだ。ルージュは答えるばかり。色々こちらも訊きたい筈なのにどうにも、訊いて良いものか、言葉が出てこなかった。
あの本が面白い、という話。中古本屋を巡る話。
どこそこの本屋は品揃えが良いなどという、そんな実の無い話をする。
でも数日後でも覚えていて、それを話題に出してくれる。
それが嬉しかった。
3
その日も一緒に帰り道を歩いていた。最寄り駅までの住宅街の狭い道の途中に、ひっそりある神域に大きな樹があるのだ。その樹が実は気になっていた。
「ここからの角度が好きなんですよ」
と、道の反対側に移動して身振り手振りで説明する。
昔読んだ本に似ているな、とルージュは思ったがしかし題名が思い出せない。
思い出すことが出来そうだったので更に深く考え始めたとき、
「孤独の星・・・」
「えっ」
自覚出来るほどに速く首が動いた。
「この前読んだ本に、似ていてな。それがまあ酷いといえば酷いが後半のあの怒涛の」
「知ってる! 自分が何も得しなくても得してもお礼なんて要らない、それが欲しいんじゃない、自分のしたいことをしているだけ―――」
その星は星でも、
「「恒星だった」」
たった一つだけの輝く星。
当たり前に、毎日誰もの隣に存在しているのに誰も感謝しない。
そう比喩された主人公。
この設定に当時は心震えたものだ。こういうものを「人」は考える。
そして自分はそれを感じ取ることが出来る。上位という意味では決してない。
我々より下だと刷り込まれ続けてきた人という生き物に、自分はむしろ感覚が近いのだと彼女は思っていた。
そう感じた。だから。
ここにいる。
こうして、これをやっているのだ。
この目の前の犬もあれを知っているとは。
この数秒の、何か成しとげたような奇妙な一体感は。
これも人にとても近い感覚だと思う。
これを感じ取れない者はきっとこの先、生きてはいけない。
この道を自分は選んだ。
この事を彼は共感してくれるだろうか。
「何、お前も好きなのか。奇遇だな。それは・・・。いや、今までそんな仲間がいなかったのでな。ああ、これはどうしたものか」
犬の姿の彼は、見た目ではわからないがあれこれ考えているらしく、何も言わずにルージュは待った。
「そうだ、嬉しいのだな」
「私は最近買ったばかりでまだ全部は」
「そうか。あれ、あそこの場面が面白くてだな・・・おっとネタバレはよしておこう。読み終えたらまた・・・」
慌てる姿も良かった。
「読み終えたか?」
「まだ。昨日は疲れて眠ってしまって」
そして次の日も訊いてきた。が、後半の一番盛り上がる手前で自制したのだ。その後の残りページ数量がどう目算しても、寝る時間までに読み切れるものではなかった。だからその前でやめたのだ。ぐったり疲れた状態で仕事はしたくない。
自制出来る時とそうでない時があるが、その時は奇跡的に出来た。これを自慢したいが相手が相手なのでしない。馬鹿に見える。だけどもう、そう見えていてもおかしくないと気付く。すでに頭の悪そうな会話しかしていない。はしゃぎすぎだ。自分はもっと静かで大人しく、無口なほうだと思っていたけどどうやらこの動物の姿の彼の前では違うらしい。
「そうか、私もまだだ」
それは嘘だろう。あんなに熱心に打ち込んでいて、あそこまで後半の展開を知っていたのに読み終えていないなんて。自分と速度を合わせてくれているのだろうか。
でも訊いても本当のことは話してくれないだろう。そして本当か確かめる術はない。試しに自分が読み終えたあとにこちらから訊いてみると、「まだ」の返事が返ってきた。
読み終えた、と言われた時期が同じになったのでそこでまた盛り上がる。この手の趣味が同じ者に会うのは初めてではないが、いつも少しずれてしまって一致するという機会は初めてだった。ちょっとした発見や考察を語り合うのはとても貴重な体験だった。
一緒に帰り、その足で食べ物を買って公園でおしゃべりしながら、暗くなるまで。
本当に色々。もうよくは覚えていない。
それくらい、他愛もない事ばかり話した。
繰り返すうちに場所も定番化してくる。
いつもの公園で、場所はブランコだった。
週末ということでいつもより時間が遅かった。そして熱中しすぎていたのだろう。
それに気付かなかった。
近所の住人が来て、驚くべきことに寝間着だった、そして、注意されたのだ。
話し声が大きいと。
謝罪しその場は解散。注意されるほどに大きい声で話していたとは、注意されるまで気付かなかった。さすがにこれにはふたりで苦笑してしまった。
もちろん気まずい空気の方が色濃かったが、お互いに顔を見合わる。苦笑。反省はするにしろ、悪い空気にはならなかった。同じ経験を共有したいたずらっ子のような顔を返してくれた彼へ、自分の何かが変わったと感じた。