間違って消したブログをまたやってるブログ
乗り移れなかった者、乗り移る順番を待つ者、乗り移らないと決めた者、その者達が人の世界に危害を加えたら制裁が下る。乗り移って人に成った者でも例外はない。人と迎合すると決めた以上、人に成ってしまった以上、理不尽な人間性や社会性に遭っても危害を加えてはならない。人間を守る為というより、長期的に見て自分達を守る為だ。絶対に見付かってはならない。
説得して海に戻らせるという方法はある事にはあるのだが大概が殺される。話して説得出来る奴は、最初からこういう行動を起こさないからだ。
そうしたルールを逸脱した者を制裁する者達がいるというのは聞いていた。あれはきっとそうだ。
もう何もかも元には戻らないというのに、あの者は街へ出て来たのだろうか、と考えたい事が山ほど出てきたが状況が状況だ。
「あああああツバキさんあっちへ! あっちへ行きましょう!」
「いきなり何!?」
「あっち、あっち!」
「あ、何か人が集まっているね」
「でもなーんかやばそうだから逃げましょう!」
「警察に通報したほうが」
「それはもっとやばい! いえいえ、あちらの、見えない所に行ったら電話でもなんでも! とにかく誰もいない所に行きましょう!!」
「誰もいない所? それはそうしたいけど」
ツバキの体を反対方向へぐいぐい向ける。
「ええ? ちょ、ちょっと待って。やっぱり警察へ通報したほうがいいよ」
やはり人間とは基本的に善良だな、と諦めてルージュは反対方向の低木の近くにしゃがむ。ツバキがこちらを見ている。こちらに来いと手招きをしてみた。彼は素直にやって来て隣にしゃがんだ。
「・・・通報しても無駄ですよ、きっと。それよりも見付かるほうがやばい気がします」
「やばいって何が?」
ツバキは笑った。
何がどうやばいかは確かにわからなかったがとにかく見付かりたくなかった。
「ほら、目撃者は消されるとかあるでしょう」
「人ひとりがいなくなったらすぐに捜索されてあっという間に見付かるよ。昔ならともかく、きちんと管理されているしね」
「おーい、こっちに民間人がいるぞう」
見張り役に見付かった。ちゃんと統率されているなあ・・・とルージュは呑気に思ってしまった。彼女一人ならなんとも無いがツバキはどうなるのだろう。目撃した人間はどうなるのかそういえば知らなかった。あの者と一緒に殺されてしまうとか? それは人間が動いてしまうのでさすがに無いと思うが・・・。良いほうの想像で人質か脅迫か。
逃げられないなら言い包める作戦に移行、いくつか立案、どれが最適か判断・実行―、などと考えていたらあちらの人型の集団の、中心から少し離れた所にいた奴がこちらに来た。
ああ、こいつは―。
懐かしい、とも少し違う。不思議な感覚を感じルージュは黙った。
少し冷静になれた。
暗い赤の服に一重のつり気味の眼。元の姿はきっと上の弟に似ていただろうなとなぜかずっと想像していた。
「んーどうした?」
砂浜をのっそり歩いてきた男はルージュを認めた。彼とは、カイト以上に交流が無かった。名前はアキ。海神の一番目の息子、すなわちカイトの兄だ。
「目撃者ねえ・・・あ、お前は知ってる。でもそっちは知らん。人間?」
「はい、一般人かと思われます」
「私たちはたまたまここで話していただけ。別に何かしようだとか、無いから」
ルージュは背にツバキを庇うようにして言った。
彼女は遠くの地から来た者だ。故郷から出てあてもなく海を彷徨っていたところに海神の噂を聞きつけ世話になった。海神に恩はあるが息子達はそれとは関係が無かった。血筋が良いが、それだけだ。彼等が凄いわけではない。だから敬ったりはしない。これは大体の魔の者に共通する認識だ。
「へえ・・・こんな時間に?」
「僕は徹夜明けです。学校からそのまま来て徹夜中と言いますか」
「私は夜勤明け」
「お、おーすげえ。夜に仕事か。そういう仕事もあったな、この近くだっけか。すげー。今度そこの買うから」
などと言うが真意が見えないのが怖い。
「というわけで私達はこれで・・・。ほら、あまり離れたら任務に支障を来たすんじゃない?」
「俺はどっちかというとナビゲーターだからもういいの。叩くは別担当だし」
「あ、そう・・・」
「ちょいちょい。待てって。お前あれだろ・・・うん、思い出した。カイトの女」
「え!」
「違う」
「は~。だってやけに仲良かったじゃん」
「あなたよりはね。でも友達じゃない」
「じゃあ何?」
「さあ」
「変わってる奴同士、お似合いだと思ってたんだけどなー」
「本人に聞いたら良かったじゃない」
「えー嫌だよ。何考えてるかわかんねーし。聞いてもどうせあーだこーだ屁理屈っていうの?言われたね」
「え、ルージュさん彼氏いたんですか。あ、どうしよう、聞くの忘れてた・・・」
「違うって言ってるじゃないですか」
「だったとしてももう関係ないしな」
「・・・」
「・・・」
最初から何もかも関係ないだろ、という言葉はさすがにやめた。
何とも言えない空気が流れてツバキが狼狽える。監視役の男がこっそり言った。
「カイトさんは、亡くなられているんです」
あっそういう事なんですね・・・という身振りで監視役にお礼を言うツバキ。
「というわけで別に通報とか撮影とかやろうと思っていたわけじゃないから。帰っても問題ないよね。この人間にはちゃんと言っておくから」
「僕消されちゃいます?」
何言ってるんだ、とルージュは無言で見た。
「でもあの黒いのって、あれですよね。昔から言われていた一人で遊んじゃ駄目って言われている魔物」
「言われている? 魔物?」
「あ、そっか、知らないですよね。ここら辺の子供には小さい頃から一人で遊んではいけません、攫われて体を乗っ取られてしまうって言われて育つんですよ。防犯の為の迷信だと思っていたけど本当だったんだ」
はえーと遠くを見ている。黒い塊は砂浜の真ん中あたりで動かない。恐らくもう死んでいる。周りで人が動いているがもう切迫した感じではなかった。
ルージュはこっそりとアキを見た。ばれているぞ、と意味を込めて。それに対してアキの反応は薄かった。口を少し歪めるだけ。
アキの「仕事」は人の世界に出た魔の者の処分だったのか。明け方によく帰宅していたのは夜更けに動いていたからで、でももしかしたら今までも見られた事があったのかもしれない。
「それにしても、本当にこういう部隊?があったのね」
「最近はさすがに数は減ったがな。まあなんかあったら教えてくれ」
「同族殺しなんて恐れ入る」
これは小声で言った。
「おうおうそうだよ。めっちゃ大変なんだよ」
そこで何か思い出したように更に言った。
「過去にこれを嬉々としてやった奴がいてさあ」
「はあ」
「八つ裂きっての? それはもう徹底的にやるから、さすがに皆付いていけなくなって結局辞めたんだよね。処分ていってもさ普通あそこまでやるう? ま、当然だよな。笑える。これがまた結構最近の話なんだよ。お前も知ってる奴だよ。あーこわい」
「へえ。そいつは、凄いね」
単に話に合わせて言ったつもりだが、アキの反応を見るとご所望の返しではなかったようだ。話からするにそいつも乗り移った者のようだがこれ以上聞いても面白くなさそうだったので話を変える。
「砂浜じゃやりにくいでしょうに」
「・・・それはあちらも同じだろ。こちらは普通の人なんだ」
アキが不機嫌そうに言った。
「砂も一緒に捨てれば簡単に証拠隠滅ですね」
二人に見詰められ固まるツバキ。
「うわ、こわ。やっぱ人間て悪意をわかってるな」
「悪意を理解しているのはこちらも同じでしょ」
「ところでさ、これ本当に人?」
アキがツバキを見て言っている。
「だってさ、その色、人にしてはちょっとおかしくない?」
ルージュの仕事の制服は帽子を被っているので髪の色なんてわからない。朝日が射してきた。暗かったので気が付かなかった。確かに、この辺りの人にしては毛色が少し違うようにも思えたが現代ではどうにでもなる。
ツバキは人ではないと言われても動揺や怒りは無いようだった。
「ルージュさんも髪の色・・・変わっているよね」
ぎくりとした。これは人としては色が濃すぎる。
「染めているだけだし」
「イメージと違うなあ」
そちらの勝手なイメージだろ。これは地毛だ。正確に言うと元の体の色に近い。なぜかこういう色に変わってしまったのだ。これは乗り移った者には割とよくある現象だった。
「こいつの事はどうでもいい。家に魔物でも入れたとしか思えない」
「地毛ですよ。実家もすぐそこ、昔からある普通の家です。家族も普通の人間です」
「やっぱ先祖返りかなんかか。ま、現代じゃ何も起きないんだよなあ」
「改めて聞くけどルージュさんはどこ出身だったっけ?」
ツバキが静かに話した。
「昔遊んだ親戚に顔が似ているんだ。夏休みしか会ったことがなかった子なんだけど。いや、これは記憶が変わってしまって思い込んでいるだけだと思う」
「うん。別人ですよ」
「そうだよね・・・。だって海で行方不明になって十五年くらい経つわけだし。ずっと聞きたかったんだけどやっぱり違うみたいだな。うん、うん。そんな事あるわけないな。はあ、すっきりした」
これが大事な話か。
この死体は、我々の体は、どこかで死んだ人間達の体を使っている。だからまだ生きている家族がいるのは必然だった。しかしいきなり当たってしまうとは。運が無い。
誤魔化すことが出来たのと別人だという本当の事を伝えられたのでルージュは安堵した。これで彼も色々と諦めがつくだろう。
3
「あの、魔物はわかりました。退治している人達がいるのもわかりました。でも、では、そんな事をしているあなた方は何者なんですか。警察でもなさそうだし政府関係者? それとももっと全然違う、例えば民間の研究所の人とかなんですか?」
この疑問に行き着くのは普通だと思う。これを聞かれた事も過去にあるかもしれない。どう返すのだ?とルージュはアキを見た。身分が上の者に判断を委ねるというわけではないが、少なくとも、人間の世界に出て行った自分には勝手に喋るという権利は無いだろうと思えたからだ。アキは体こそ乗り移ったものの、まだあちら側の者だ。
「何を隠そう俺達はあれと同じ魔の者だー!」
「魔の・・・者?」
「謎の技術で人の死体に魂を移した魔の者! それがあれと我々の違いだー!」
「ええええ! いいの言っちゃって!? そこは誤魔化すとか記憶改竄とか頭部強打で記憶を飛ばすとか! しないんだ!?」
「こういう事を言うのがまさに魔の者。こっわー」
「はあ!?」
「だって少し混じってるだろ。乗り移ったんじゃなくて絶対本物がいたな。人に化けていたかそのままヤったか。どちらにしろちょーっとだけ関係者? いいんじゃないの」
ここが地元だと言っていた。だから魔の者と接触する機会が多くあったのだろうと推測する。昔の、力の強い者がまだいる頃であったなら人に化けることも可能だったかもしれない。ただし繁殖力は人間のほうが遥かに強い。何も残せなかっただろう。あるいはそれが隠れ蓑となり平和に暮らせた・・・などとルージュは想像した。彼女には別世界の話のようだ。
ツバキを見る。彼は困惑していた。いい歳した大人の男が何を言っているのか、という顔に見える。わかる。これは、ちょっと、どういう反応をしていいか困る。
「信じなくていいから。どうせこれといった証拠みたいな物があるわけじゃない。変な奴が変な事言っている、それだけだと思っていいから」
「ううーん。信じたいんですけど、うーん? ええ・・・本当ですか? でもルージュさんの言う事だから信じる・・・」
「信じなくていいから」
ツバキやルージュの反応を見てようやく満足したのかアキが言った。
「明るくなってきた。終わりだ」
見ると魔の者は船のような物に乗せられ、沖合いへ出されていた。きっとあの船は沈んでいくように出来ている。もう誰にも見付からなければいい、と思った。
太陽が昇って明るくなるともう人間の時間だ。
ここぞとばかりにルージュは退散しようとした。
「ちょっと待て」
今までで一番強い言い方だった。平静さを保ちながらアキを見た。
「お前さ、事務のなんかの書類、受け取ってないだろ。事務の人が文句言ってたぞ」
別の意味で青ざめた。
「し、知ってる! わかってる! 覚えている! さすがに今日は疲れて眠くてですね・・・そのうち取りに行きま・・・」
「今から行けばいいだろ。何言ってんの」
「ほらあ・・・今行っても誰もいないしー・・・」
「あと一時間か二時間待てばいいだけだし。よし上がりの奴らと一緒に帰れよ。おーい」
行きたくない。出来ればもう二度と行きたくなかった。しかし身元引受人になっている館に、就職や引っ越し時など各種書類が届くようになっていたのだ。これには参った。想定外だった。やはり逃げられないのか、とがっくりした。で結局、今の今まで放っておいている。想像しただけで胃がひっくり返りそうだ。口の奥から何かせり上がってくるような。胸と腹が苦しくなってきた感じがして押さえた。そこまで嫌だったのか?と逆に笑えてきた。
「あの、付いて行ってもいい?」
「いい。要らないです・・・」
「だって全然大丈夫そうじゃないよ」
「いいじゃん。あいつらに見せてやれよ」
アキが楽しそうに言った。あいつらとは研究職の者だろう。今の時間でも多分いる。あそこに住んでいるのかと疑うほど研究熱心だ。
「獲って喰われたらどうするの」
「喰うとかって。今時なに?」
「おいしくないよー」
というわけで数人の作業者と一緒に館へ行くことになった。
「人の子に好かれて良かったじゃん。せいぜい自分好みの眷属に育てるんだな」
「眷属とか古い習性は持ってない」
アキは言うだけ言って挨拶などは一切なしでその場を去ってしまった。
一行は十五分ほど歩いた所にある館へ向かうことになった。体力仕事の夜勤明け、既に明るくなった外を歩く者たちは独特の重い足取りだった。ルージュも同じような足取りだ。思い出したら疲れがぶり返して来た。
同行した者たちは、明らかに人間であるツバキを最初はちらちらと見たがもう興味はなさそうだった。住宅街の狭い道は車も人もまだあまりいない。ツバキにやや近づいて話し掛けた。徹夜明けで眠そうだった。
「大丈夫ですか? ごめんなさい。普通に今まで通り普通に、普通にして貰えたら助かります」
「うん、わかった。でもまだ信じられないというか、え本当に? はああ・・・凄いことになってしまったなあ。体の一部を異形にしたりビーム出したりとか出来ないの?」
「出来ませんね。私たちの体は普通の人です。なのでもうそんな能力?とか無いですよ。中身はともかく、見た目だけは見た目どおりの腕力と体力です」
稀に乗り移っても魔の者特有の能力を持ったままの者がいる。噂だとアキがそうらしい。
「カイトさんてどんな方だったの」
「どんなか・・・。自分のことは喋らない奴だったのでよくわからないですね」
「変て言われていたけど、どんなところが変だったんですか」
「何か色々・・・あ、グラタン奢ってくれた」
「グラタン」
「普通に美味しかった。まあ変と言えばそうだけどあの程度普通でしたよ。私はアキ達のほうがよほど変に思っていたり・・・これは秘密ですよ」
先程のアキとここにいる部下たちの関係は特に問題がないように見えた。むしろ世話焼きで配慮も出来る良い先輩のような。それが、実の弟にはあれだ。
そして下の弟とは確か仲が良かった。彼はアキによく懐いていた。それをカイトに見せつけていた節もある。
カイトはあの感じでは海神である母親とも距離がある。食事に行くと言ったあの日、皆あの場では普通に振る舞っていた。カイト以外は所謂普通の家族なのに、カイトにはあの扱いだ。これは、彼が悪いのだろうか? 彼自身に何かがあってそれを嫌悪されているということか? 家族と仲良くする一方で、家族にああいう態度もする。血縁なんて所詮そんなものか、と思わせた。
「よくあの環境で生きてこれたな、みたいな感じ。よく一緒に住んでいたなあ。窮屈だし色んなものでごちゃごちゃ固められていたのに。鈍感とは思えなかったですけどね。だからこそ引き篭もって漫画やアニメで遮断していたのかも。確かにあれらは面白いけれど・・・。あ、これは私の見た感想だから正確ではないですよ。偏見が入っていますね・・・地元の者達に似ているような気がしたので」
地元の者達みたいに気持ち悪い、という意味だ。周りに館の者がいるので直接には言わない。それに口に出すと増長されそうで嫌だった。
ツバキがお、という顔になった。
「人に成らないことに決めたんですよ。死ぬのが怖いくせに、何もしない。直前まできっと何もしない。どうするのかって訊いたらなんて答えたと思います?」
ルージュはツバキの返答を待たずに続けた。
「そんな怖ろしい事を言うな、よ! あははは!」
ルージュは仰け反って笑った。全然面白い話題ではないがおかしいからだ。
「というわけで私は出て来たのです。何十年も前の話です。懐かしい・・・。しかしどうして出て行かなかったんだろう。そこだけはわからない。聞けば良かった」
「あるいは出て行くという選択肢を思い付けなかった」
「外出は普通に出来るのに?」
「うんそう。何十年もそうだと思っているとそれ以外思い付かなかったりするからね。僕もそうだったし。実家を出て一人暮らししてから気付いた実家の変なところ・・・あーあれは恥ずかしかった・・・」
項垂れながらツバキが言った。それから顔を上げて聞いたきた。
「もしかしてルージュさん、物凄く年上だったりする・・・んですか?」
「ええ、まあ。えーと君の二倍・・・三倍くらいかな? 息子と同じくらい? 息子というより孫か」
「こ、こここ子供いたんですかあ!?」
「いないけど。いたらその位というたとえだったんだけど・・・」
もうここまで来たならこのくらい言っても大丈夫だろう。馬鹿ではなさそうだから自分の生活に戻っても口外はしないと思えた。何より人間側の理解者は貴重だ。
「でも人に成ったのはまだ数年だからツバキさんのほうが先輩ですよ」
「ああ、どうしよう。ちょっと考えさせて下さい」
「いやだから敬語とか要らないから。今まで通り普通に」
「駄目ですよう。凄く凄く大事なことですよ!」
1
館が斡旋する仕事に就職出来た。組織の息が少しでもかかっている所は正直嫌だったが利用出来るものは何でも利用してやろうと思った。
館が斡旋している、といってもどの程度あちらにこちらの正体を話しているかルージュは知らない。通常は、乗り移った者が就職していて、いわゆる先輩がいる会社という認識だ。基本的に人として振る舞う。
初勤務は会社の概要や更衣室の場所、仕事の説明でそれだけでも相当に緊張したが実際の勤務はもっと緊張した。あちらの言っている事を理解出来ているかとか変な動きをしていないかとか。考えればきりがない。
「よろしくお願いします。同じシフトを回すサカエです」
「よろしくお願いします」
「あと他にもう一人いるけど今日は休みで、今度会えますよ」
二十代後半の見た目の女性。あらかじめ聞いていたが彼女は乗り移った者だ。あちらも当然こちらの事を聞いているだろう。でも何も言わない。我々は人なのだからそんな「普通」のことは言わない。
ここの部署は数人の社員とアルバイトがいるようだ。夜勤もある。シフト制なので毎日全員がいるわけではない。いつも違ったメンバーと仕事をするわけである。
とにかくまずは仕事を覚える事。これだけで気付けば半年が経っていた。正確に出来るように、それでいて速く出来るように頑張っていた。他の職員とも打ち解けてきたと思う。本性もばれていない。若い女、ということもあって男性の多い職場だったから油断しているようだ。これは好都合だった。
歓迎会をやらなくていいと断ったらもの凄い顔をされた。店の予約を済ませてしまっていてもうキャンセル出来ないと言われた。主役であるルージュの意思は考えていないのか、単に酒が飲みたいだけなのか、人とはこういうものなのかと思ったが顔は笑顔を作っておいて、すまなそうにしなくてはならない。複雑だ。結局行く羽目になり、しかも皆の前で挨拶をさせられた。こういう儀式をしなくては仲間になれないのだろうか?
ある日勤務中に上司がいないことに気が付いた。最初は気のせいでどこかにいるだろうと思っていたが次第に皆もいない事に気付く。その日の出勤している職員全員が探していたので職場自体にいないのが確定した。午後の追加受注の確認と生産開始の時間が迫り、事務所にいる更に上の上司に報告しに行く事態となった。
ここで誰かが携帯端末を取り出したらしく、上司の居場所が判明する。なんと、アルバイトの人を病院へ連れて行くのに出て行ったらしい。このアルバイトはルージュよりも後に入った二十歳くらいの女性だ。
「もうすぐ戻るってさ」
「は?」
「というかあの子今日非番でしょ」
「というか実家暮らしだし」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「(若いメスを妊娠させたオス・・・)」
皆が呆れた顔をしていた所から少し離れた場所でルージュは思った。
「大丈夫ですかね」
以前からいるアルバイト二人組のうちの一人が言った。
「(いやいや、全然大丈夫じゃないよ。おかしいだろ)」
と思ったが口には出さず。
住む場所も変わった。この会社の寮に引っ越したのだ。徒歩五分という近さで、すでに朝起きるという行為が苦手になっていたルージュにはこの近さは幸運だった。ただ、とても忙しかった時期に残業が長引き、明日の出勤まであと八時間、というところまで残業時間が経過したときルージュは怒りをさすがに表に出した。
「お前はいいだろ、寮近くて。あいつらは普通のアパートに住んでるから、帰るまで一時間とかかかるんだから文句言うなよ」
と以前からいるアルバイト二人組のもう一人が返した。このもやもやとした感情をどう表わしたらいいか、適切な言葉が出てこなくて言い返せなかった。考えに考えた反論は、遠い自宅を選んだのはその者の意思だからそれを引き合いに出すな、だろうか? もっと勉強しなくては。ルージュはますます燃えた。
事故が起きた。一緒に掃除をしていた一年上の先輩が機械に手を挟まれたのだ。ルージュは別の機械担当だったが近くにいて、最初は気が付かなかった。小さく「あっ」という声が聞こえた。なんとなく先輩のほうを見てみる。立ったまま、慌てているような変な動きをしている。これはまずいのではと思い、次に非常停止ボタンを押さなくてはと判断し、ボタンを見た。するとそれを押す手が見えた。広範囲に動いている機械が止まる音。それから静寂。停止ボタンを押した彼がそのまま先輩に駆け寄る。アルバイトの片方だった。ずっと後ろの工程の場所に居たはずなのにここまで来たらしい。ルージュも先輩を覗きこんだ。機械からは抜け出せたが手を押さえている。
「イワヤさんを呼んできて」
アルバイトの彼が言った。上司の名前だ。
「はい」
事務所は少し離れた所にある。ルージュは走った。途中で放送も鳴った。先程指示を出したアルバイトの声だ。やや切羽詰まった声でやはり上司を呼んでいる。事務所にたどり着く前に上司たちと鉢合わせた。イワヤだけでなく他の上司も一緒だ。放送を聴いて何か起きたと判断し出て来たのだろう。ルージュは場所を案内した。
現場の把握と再発防止の話し合いがその場で行われている。後から駆け付けた近くの仕事場の人達に先輩は囲まれていた。
ともかく指は落ちなかった。分厚い包帯を巻いて数週間勤務していたのを見た。回復したあとに雑談の話題に上がった時。
「ルージュさん何もしなかったね」
「大丈夫、とかも言わなかったって」
と言われた。
何か起きた後、比較的被害が微少だったため笑い話として話題に出る、どこにでもある人間社会の風景だ。皆は笑っていたし悪気もなかったように見えたがどう解釈しても、良い風に言っていない。明らかに駄目な箇所の指摘だ。ルージュはなんと返そうか言葉に詰まってしまったくらいだ。指摘するならそう言えばいい。先輩として普通の行為だ。けれどそうではない。悪く言っていないから、笑いながらの雑談にして良いという空気に思えた。ルージュが言葉に詰まったのは、なんと返したらあちらは満足するだろうか、とも考えたからだ。反省の言葉を待っている感じでは無かったが、そういう類を言わないといけない圧力を感じた。先輩である彼には同期や入社してからの一年間という時間で知り合った同僚がいる。その者達に囲まれたあの場で、人をかき分け、「大丈夫ですか?」と言いに来る入社したての若い女。この図がどう見られるかなんて魔の者であるルージュでもわかる。そんなものに成りたくない。
あ、そうか。後日でも、次に会った時に言えば良かったのだ、とここまで考えてやっと気付く。
ああ、人とは。
面倒臭い。
とまあこの職場はおかしな人間達ばかりだった。ここだけに限った事だろうか? だが「研修中」もそうでもなかった事を思い出す。どこに行っても多分こうだ。人とは本当に面白い。群れるとどうしてこんなにおかしな思考をするのだろうか。自分もいつかこういう思考になってしまうのだろうか。いや、そうはならないだろう。なりたくないと思っているからだ。単に合わせるのが上手くなって行くだろうと予想出来る。でもこれも嫌だなと思った。
考える事が沢山だ。人として生まれたばかりなのだから考える事が山のようにあるのは当然なのだが、「生きる」以外の事が多すぎる。否、人はもうこの星の生命体としては安定しているので「人間社会で生き残る」ことを考えるのは当然か。
2
入社してから一年に迫る頃、夜勤が終わった朝、着替えを終え会社の玄関まで来たとき靴箱に何か入っているのに気が付いた。手紙だ。直感で恋文だと思った。心臓がどくりと鳴った。
その場で読むか悩み、でも誰かに見付かるのを恐れ鞄に仕舞った。無くさないようにしっかり持って、急いで帰宅し部屋の鍵を掛けた。
内容は「大事な話がある」だった。
手紙はいつ入っていたのだろう。昨日の出勤前には無かった、と思う。いつものようにぎりぎりまで起きてぎりぎりまで寝るという不摂生な生活で、慣れてきた所為もあって当然のように時間ぎりぎりの出勤だ。従って急いでいた。気が付かなかっただけか朝に自分と交代だったか。昨日は居ただろうか。あるいは非番だったがわざわざ来て入れたか。
心臓が動いているのがわかる。
元は自分の物では無かった心臓が今では自分に合わせて動いている。
寮に住んでいる同期に連絡してみるとこんな朝に起きている奴が二人いて、部屋に集まり相談してみる。「えー、無い」と言われた。手紙という手段が駄目だという。
シフトの仕事で、夜勤と昼勤がある。一年近く勤務していてわかったのは、シフトがずれると会わないときは全然会わない、だ。長期の休みをお互い取っていないにも関わらず会わないのだ。ふとシフトが合うと「久しぶりですね。休んでました?」と挨拶するくらい。だから手紙という古風な方法は合理的だとは思う。
日にちは書いていない。携帯端末の連絡先が書いてある。こんな時代にわざわざこんな連絡の仕方があるだろうか。冷静になってきた。告白ではないかもしれない。
素っ気なく、当たり障りのないように、と考えながらメッセージを送った。このくらいの連絡先が知られたところでどうということはない。しばらくして返事が来た。話は直接会ってしたいので、という内容で場所と時間が提案された。はい、わかりました、と返す。
ふう、と一息ついた。あちらのほうのボロは出していない筈。人の体に成ってしまっているため、人の体を逸脱した力をルージュはもう持っていなかった。だから疑う要素自体が無い。
魔の者という存在は一般にはもちろん把握されていない。しかし人間の創作物にはたくさんの生き物が存在する。だからそういう目で探されると見付かる可能性は充分にある。そもそも海で見付かってしまう者は一年に数名はいる。
外はまだ夜のほうが長い季節のため薄っすらと明るいだけだ。朝が近いことはわかるが大半は夜。もそもそとパンを食べながら手紙を改めて見るが、心臓の動きが邪魔でもうこれ以上は読んでいられない。
ルージュは出発した。場所は海浜公園。海から魔の者が出て来ませんように、と謎の祈りをした。
海に沿って公園が作られていてこれがまた広い。広いので区域毎に番号が振られているのだ。指定された番号の出入り口をくぐり砂浜までは出ずずっと手前の芝生のほうに留まる。海を見る為に設置されたベンチを見付けてその一つに座った。背後は防風林と海岸でも育つ低木が植わられている。
よくもまあ、あまり話したこともない同僚の手紙に呼び出され、行くものだ。ここまで来たので冷静になっているようだ。寒い空気が喉を通り肺に入るのが感じられる。海は静かだ。さすがに誰も泳いでいない。もう少し明るくなったら人が来るだろう。
背後から気配がした。
ぼさぼさの頭に眠いように見える目。以前からいるアルバイト二人組の一人、ツバキだ。確か学生。年齢は見た目ではルージュより上である。
「あ、おはようございます。って何か変だね」
あはは、と歯切れ悪く言った。
「お疲れ様です」
ルージュは普通の挨拶を返した。
「えっと、来てくれてありがとう」
「・・・」
「・・・」
「・・・・・・」
「ルージュさんもしかして体調悪い?」
「え?」
「なんかムスッとしているから・・・」
しまった。素が出ていた。仕事中は明るく素直で元気な新人、を演じていたのだ。眠いのと疲労と手紙ですっかり忘れていた。
「実はですね」
やっと話が始まった。
「僕、バイト辞めるんです」
「え、辞めるんですか?」
「この前の出勤で最後だったんですよ」
「あー、そうだったんですね。知らなかったです」
シフトを見ていないのでツバキが最後だった日はいつだったかわからない。休みだったかすれ違ったシフトだったか。最後に一緒に勤務したのは結構前だったと思う。どちらにせよ記憶は曖昧だった。辞める理由を訊いて話を膨らまそうと思ったがやめた。もしかしたら聞いて欲しいのかもしれないのがどう出ようか。
「あとこれは全然・・・関係あるようなないような話なんだけど。ルージュさんどこ出身だったっけ」
「この辺ではないですよ。実家でもないし地元でもありません。もっと遠くです。最初の自己紹介でも言いましたけど」
「うん。だよね・・・」
そこだけはなぜか珍しい顔付きをした。
「見せたい写真があって、実家にあると思ったんだけど見付からなかったんだよね。うーん残念」
ふと後ろを見た。まだ薄暗い遠くに人影が複数あった。もう人が来る時間かと思ったが、大きな影が飛び出して来てその認識が間違っていたことに気付く。
げ、という言葉が出て来るのをすんでのところで抑えた。人の形をしているのは人に乗り移った魔の者で、大きな影が乗り移っていない魔の者だ。ルージュは瞬時に悟った。
あれは、処分だ。殺しているのだ。
次も電車で移動して駅からまた歩いた。大昔の偉人の首を祀っている場所だった。誰でも入れるしちょっとした観光スポットだ。旗が道に沿って沢山立っていた。暗い気配は全然しない。
「首を? 人間は変な事をするなあ」
「昔の話ね。人の頭部、頭脳かな? それはその人そのものだと考えられていて、まあとても価値がある。今でもなかなかに治療も復元も難しい」
というわけで敷地内を回り、目玉スポットも一通り見終えた。滞在時間三十分過ぎたところ。
「よしでは次――」
敷地を出たところでカイトがまた宣言した。
駅にまた戻りまた電車に乗り、今度は海のほうへ向かう。観光地から帰ると思われる人々で駅は少し混み始めていた。ルージュ達は反対行きなので電車は空いていた。
海岸から道が伸びていて一キロメートルくらい離れた所に島がある。この辺でも有名な観光地だ。砂浜が終わると両側が海になる。橋から波が漂うのを見たが何も泳いでいなかった。
島に着くとそこはもう観光地だった。緩い坂道に土産物屋や食べ物屋がずらりと並んで客を待ち構えている。帰りにもここを通るので後回しにして通り抜けることになった。信じられないくらいに人が多い。今の時代に観光地に生身で行くという事も珍しいのに。暇だし豊かなのだろうなとルージュは思った。
林の中の道を上り薄暗い突き当りまで来たところで人工物が登場した。
「エレベーター? え、凄いね。これで簡単に昇れるわけだ」
薄暗い木々の間に機械があるのはとてつもない異物に見える。
「そ、誰でも上へ行くことが出来るわけなんだけど」
カイトはどうやら土の道の、つまり山道を登りたいようだ。今日の外出は彼の言う通りにしようと決めていたので渋々だがそちらを容認した。
ルージュに宛がわれたこの体は彼女自身の精神よりだいぶ若かった。けれど外の世界に出て、何も知らない者と接すると外見の年齢のように扱われるので精神もそちらに引っ張られている、と感じていた。
だからといって子供のように振る舞う事はさすがに出来ないし、そぐわない言動をすると不審がられる。これは絶対に避けなくてはならない。だから相手が「同じ」境遇の者だと少なからず安心する。ルージュは元々群れる習性はないので仲間意識というものはないが気を遣わないで済む。
山道は思ったより急で暗く湿った道だった。さすがに無言で歩く。登り切ると目の前には広場があり奥には古めかしい建物があった。奇妙な形の生物を祀っている。
「昔暴れたやつ?」
「こういうものでは我々は鎮まらないね」
そこをささっと見てカイトはすぐに別の方向に歩いていた。島自体が小さいので歩ける頂上部分はもっと狭いと思われるが、もう少し見て回る所があるようだ。ルージュも後を追った。
低木が植わられた間の道を行く。一番見晴らしのいい所に簡素な鐘があった。恋人が一緒に鳴らすと幸せになれるとかなんとか、という説明書きがあった。二人とも鐘を見上げる。
「へえ・・・」
紐が垂れているので本当に音が鳴るようだった。景色はとても良い。
カイトがまたすぐに歩き出して今度は頂上部分の周りを囲む大きな木が生えている所に入って行った。カイトの身長だと枝が低いのでやや屈んでいる。暗いので地面にあまり草は生えておらず、土が固い地面になっていた。あの先は恐らく島の端になるだろう。すぐに崖だろうか?とルージュは思った。
彼女がそんな事を考えているのも知らないであろう、カイトは木を見上げたり根本を見たりどんどん先へ進んでいる。
「ねえ、いつもこんな事しているの」
「時々。割とちゃんと計画しているよ」
「今までどんな所へ行ったの」
おや、という顔を一瞬された。それはそうだろう。だってこういう一歩踏み込んだ話をする間柄ではない。今までもそうだったしこれからも多分そうだが、今日は気紛れだ。ルージュが誘われたのも気紛れだろうと思っている。あちらが観察に値するものが自分にあるとは思えない。
彼は、うーんそうだなあと考える仕草をしてから、
「言う程たくさん行っているわけではないよ。そうだね、飛行機は楽しい。空港がとにかく大きいし楽しい場所だった。船も楽しかった。乗っていると速度が感じられなくて面白い。これからさらに科学が進んで調査が進んで、もうじき海にも人間がたくさん来る」
それは魔の者共通の認識だ。カイトの表情はいつもの無表情に近い。ルージュもこれといってその事実を悲観しているわけではない。だって人のほうが頭が良いのだ。力が弱い代わりに頭脳を駆使する。物を生み出せる。どこへでも行く。歴史も宇宙も読み解こうとする。その貪欲さは魔の者から見ても驚嘆する。
そしてルージュもカイトもどちらかといえばそちら側に近い精神の構造を持っていた。だから乗り移ることを許された。弱い体に成っても大丈夫だろうと。
「よし次」
「え、もう終わり?」
「うん」
「ちゃんと見てる?」
「見た。次はね」
「ちょ、ちょっと。待って。まだ行くの。どこかで休まない? なんか食べたりとかないの? どこか座りたい。疲れた・・・」
ルージュの言った言葉を理解していないようにカイトはちょっと驚く顔をした。
「なるほど。他者がいるとこうなるのか」
「はあ・・・え、何? いつもはどうしてるの? 食べないとか?」
「食べない。そこまでお腹は空かない。もしくはパンでも買ってベンチで食べる」
海の近くにある「館」と呼ばれるに相応しい外見のあの建物に海神親子は住んでいる。同時に、乗り移った者の体調管理や研究などもしていて、人の世界へ出て行く前の訓練中の者を住まわす寮もある。
同じ敷地内で数年住んでいればどんな風に思われているか周りから聞こえてくる。カイトはもちろん変わり者だった。ルージュはそこまでとは思っていなかったが今日はそう思ってしまった。
「食べるのが目的の時は食べるけど、その時間でもっと沢山見たいしなあ」
帰りはエレベーターに乗って山を下りた。エレベーターは景色を魅せるためにガラス張りであった。すぐ目の前に広大な陸地が広がっていた。
次の目的地は島の裏側にある岩場だったらしい。そんな話を聞きながら土産物屋の通りを過ぎる。島に入る前にあったファミレスに入ろうという事になった。
島と陸を繋ぐ橋の風が気持ちいい。
「そうか。あれは・・・を象ったものか」
「え、何?・・・ええと。荒れた海を鎮める祈祷なんかに使う物じゃないの?」
鎮まるわけのない魔の者を祀る、なんて事を人間はしないだろうと思ったからだ。
「うん、それもある。あとは大漁祈願。ああ、地元だから、あっても不思議ではないか。あの古さからすると」
待っていたが、続きの言葉は一向に来ない。どうしたのかと顔を覗き見ると全然違う方向を見ている。この話題は彼の中では終わったようだ。店に着いたことによってルージュはこの話題のことは忘れてしまった。
「はあ・・・疲れた」
時間がずれていたこともあってレストランは空いていた。奥の窓側の席に向かい合わせで座る。
「奢るよ。今日は連れ回してしまったし。好きな物選んで~」
間延びした声は紙のメニューの向こうから聞こえた。テーブルに備え付けの端末がありそれぞれ注文出来る。好きな物って、凄い額を注文されたらどうするのだろうと一瞬考えたがこちらにメリットが無さ過ぎたので実行には移さない。
「じゃあこのグラタンで・・・」
「はいはい~」
あちらが端末を操作する。
「飲み物は? 俺はホットコーヒー」
「・・・じゃあアイスコーヒーで」
コーヒーが先に来た。二人は飲み始める。やっと一息つけたと思えた。向かいのカイトを盗み見ると窓の外を見ていた。
ルージュも見てみたが歩道を歩く人、走っている人、道路の向こうの浜辺で犬の散歩をする人、これといって変わった風景ではない。ごく普通のこの世界の風景だ。
二人にとっては異質な世界だが馴染まないといけない。
料理が来た。カイトはなんとフルーツが乗った小さなパフェを注文していた。
「食事じゃないの!? なんでいきなりデザート?」
「デザートを先に食べて何がいけない? でも食事はこのあと食べないけど」
意外にも美味しそうに食べる姿を見てしまってルージュは自分の食事を始めた。
「おいしい?」
カイトが聞いてきた。
「おいしい。普通においしい」
「それは、良かった」
そういえばカイトは携帯端末をあまり見ていなかった。地図を確かめる為に取り出したりはしたものの、電車を待っているときや乗っているときも、レストランに入ったこの時間でも見ようとする仕草は無かった。ルージュはこの機械が好きだ。とても面白い。しかし今日はカイトを観察する目的としていた為、意識して見ないようにしていた。もしかして単に好きではないのかもしれない。見ようとする用事がないだけなのかもしれない。
カイトが何の仕事をしているかルージュは知らない。乗り移った魔の者は人の世界を理解しやすいということで、人間社会の何かしらの仕事に就くのが習わしだ。わからない事も新人、ということにしておけば誤魔化すことが出来る。
彼は自分より格上の魔の者で、生まれ落ちてからの年齢も乗り移ってからの年月もずっと上だ。だから友達にはなれない。けれど話は出来る。人に成ったのだから。話すだけに関係性の名前は要らない。
「カイトは趣味とか・・・ってある?」
「オタク。人間の文化ではこれが最高だと思う」
早口だった。脳内で意味がぐるぐる回る。
「この世界で生きるのに必要か必要でないかといったら全く全然必要でない。なのにこの必要でないものに精神を癒される作用がある、生きる目的みたいなものすら生まれる。生きる目的? なんだそれ? 我々にはない概念だ。そんなわけのわからないものまで生み出した人間達、それが存在するという事実。我々は生きている状態を「考えない」。獲物を狩る、食べる、寝る、交尾する、死ぬ。それだけ。どちらかというと虫や動物に近い習性だ。本質的の精神も。だけども人間はそれを超える。生き物だという大元は同じでありがなら文化を生み出す。新しいものを考える。生きていることが前提だからこそ「考えない」という状態は同じだけど、だからこそ生まれた文化だね。平和な時代になった為に延びた寿命、長期的な精神の安定を図る為に取り込む、というのは論理的だ。本や作品で手軽に他者の精神構造を見ることが出来る、生まれてからの歴史を知ることが出来る。この手軽さはとても素晴らしい」
「あ、うん」
「紙の漫画とかたくさんあるから貸すよ。人間との交流の話の種になるかもしれない」
館まで歩いて時刻はなんと午後の三時。一緒に帰るのを見られるとか考えない風に普通に館に入った。「今日は楽しかった。どうもありがとう」と言い、さっさと自室の方向へ行ってしまった。他者とのこの関わり方は、館内での自分の評価と一緒にいる者をどう思わせてしまうかの配慮かな、と勝手に想像していた。単に面倒なだけかもしれないが。ルージュは館を通り抜け、敷地内にある寮へ帰った。
3
ふと音がしてルージュは目を覚ますと、窓の外をガヤガヤといかつい音がした。まだ夜明け前の時刻。カーテンを少し開けて見てみる。薄暗いなか複数の者が歩いていた。話し声は小さく聞こえる。見知った声が聞こえた気がした。
確かあいつはいつも朝帰りだ。普段何をしているかは知らなかった。
4
カイトが死んだ。
その日ルージュは仕事が休みで、何をするでもなく過ごしていたが館がふいに騒がしくなった。それは寮のほうにも伝わってきた。
良くない事が起きたのだろうことは皆の顔を見ればわかった。ひそひそと話し、でもどれも予想や噂の範囲を出ないようだ。しかしカイトが死んだというのは確かというのはわかった。皆の落ち着き具合から他者に殺されたのではないということも察せられた。
夕方前、何気ない風を装って館に行ってみると出口にほど近い廊下から、話声が聞こえてきた。その廊下に曲がる直前、声が聞こえたので止まった。顔なんて見なくてもわかる。海神とその長男と三男だ。声を潜めているので断片的にしか聞こえない。
「・・・いうことを・・・ない・・・」
「まあでも・・・だし・・・とか」
「いつか・・・と思ってた」
「何それ。・・・・・・とか言いたい・・・」
弾んだ言い方や皮肉といった普通の会話が続いた。
ルージュは見えない位置から移動した。
何度か行った事があるので迷わない。
カイトの部屋。
鍵が掛かっていると思ったが開いていた。
ここが死んだ場所かもという考えは不思議と彼女には無かった。
扉を閉める。
薄暗いが電気は付けないでおいた。
部屋はいつものように見える。
積み上げられた本。積み上げられた段ボール。やはりその上に本。何かの箱。それが部屋中に広がっている。薄暗い中で見ると黒い建物がそびえ立っているようだ。最初に来た時は驚いたものだ。これが噂のオタクなのかと。移動するにも一苦労。歩ける場所がない。物の間を歩くのだ。足や膝がぶつかる度に彼が顔を向けるので気まずい。何度か来るうちに居る位置が決まった。入口近くの箱なら座ってもいいと言われた。
本を選ぶために読んだり感想を少し言い合ったりした。
その時のカイトは、楽しそうに見えた。
一歩踏み出してやはり箱にぶつかる。
早速やってしまった自分に嫌気がした。
少し奥まで歩いてみる。カイトは慣れていたのでひょいひょい移動していたがルージュはそうもいかず足がそこかしこでぶつかる。
そこで気が付く。
箱が動いた。乗っている箱と共に倒れそうになったのを慌てて直す。
軽いのだ。
中身が入っていない。開けてみたがやはり何も入っていない。
隣の箱も持ち上げてみる。
持ち上がった。
いくつかは中に数冊入っていたりしたが、大半の中身が空だった。
奥のデスクまで行ってみる。
カイトはいつもここに座りパソコンを見たり本を読んでいた。
パソコンは電源が入っておらず真っ暗な画面を見せている。
当然ロックが掛かっているだろう。
あるいは、中身は無いかもしれない。
さきほど聞こえた会話。
「いつかやると思っていた」とはなんだ?
どういう意味だ。
自殺をいつかやると思っていたのか?
周囲が思っていたのか?
皆にそう思われていた?
カイトと出掛けた日から半年以上経っていた。
もうここにはいられないと思った。
館を出るには許可が要る。
まずは人という複雑な生き物を理解出来ているか、人間社会に入るための訓練が終わっているか。言葉や習慣や物の名前、交通ルールなどあらゆるものを勉強する。
次は長期的に生活するための仕事に就かなくてはならない。
館が斡旋している仕事とそうでない仕事があるが、自ら就職活動をして就職しなくてはならない。
住む所も探さなくてはならない。
ルージュは何も考えず作業した。
1
ルージュは玄関の扉を開けた。
溜息をひとつ。
「あら。おかえりなさい、ルージュさん」
顔を上げるとそこにはお付きの者を伴った海神がいた。
「調子はどうかしら」
首を少し傾げて言う。
真っ直ぐの髪、優雅な仕草。
これぞ、上に立つ者の見た目という感じである。
「体に不具合は起きていない?」
「あ、それは、大丈夫です」
「それは良かったです」
「お母様―、と」
玄関ホールの更に奥から来たのはこの海神の三番目の息子であった。
ここに来ているなんて珍しい。
ルージュは話しかけはせず、目礼だけした。
明るい髪の色、可愛がりたい者を刺激しそうな素直で快活な性格が滲み出ている顔。
よくもまあそんな似合った体が見付かったものだ。
それとも、内面の影響で外側が変わったのだろうか?
そこへ二番目の息子がやってきた。
三男とは違い静かな空気が流れている。黒い髪、特徴のない服。
柔和ではあるが何者も寄せ付けない静かな笑顔。
「アキは?」
三男が海神である母親に聞いた。
「用事が終わってからだそうで、外で待ち合わせの予定です」
「そっか。楽しみだなー」
「これからお食事に行こうと思っています。カイトはどうしますか」
「あ、アキからだ。今終わって向かってるって。早く行こうよ」
「用事があるので」
次男は少しだけの笑顔のまま首を横に振った。それで会話は終わったとばかりに皆の足が動き出し、ちょっとした集団は玄関を出て行ってしまった。
ルージュは心の中で一息ついた。やはり緊張していたようだ。
さてやっと自分の部屋へ戻れると思ったとき、カイトと目が合った。
「ね、ところでルージュはこのあと時間ある?」
「え」
「どこか一緒に出掛けない?」
「さっき用事があるって・・・」
「用事は終わった。ルージュは、暇?」
「ええ、まあ・・・暇かな」
ほんの気紛れだ。暇なのは本当で、だからこの不可思議な扱いをされている海神の次男を観察してみようと思った。
「よし、じゃあ外で合流! 待ち合わせというものをやろう」
「何、意味わかんない」
「時間は二時間後がいいかな? 場所は携帯端末に送るから。山登りはしないけどたくさん歩くから歩きやすい靴と服装がいい。じゃあ後で」
清々しい笑顔ときれいな流れで予定は決まり、さっさと行ってしまった。
ルージュには相変わらず考えが読めない性格の持ち主だった。
2
この体に魂を移してからまだ数年。
人の数が多くなり、魔の者と呼ばれる人ではない生き物の生存圏が無くなりつつあった。そこで人の体に魂を移し、乗り移ろうと考えた者がいた。人の中に溶け込むのに抵抗がある者、人に成るのがそもそも抵抗のある者・・・。賛否両論あったものの、ともかく技術は確立し、魔の者は人へ乗り移って行った。
科学が進み、陸地に居ては捕まるのは時間の問題となった。魔の者たちは海へと追いやられ、そこが最後の地となっていた。海神はもともと海を統率していた者だったため、海へ逃げて来た者たちに諍いが起こらないようにしたり場所を作ったりとしていた。自身も乗り移り、陸へ上がってからも乗り移った者たちが人の世に溶け込めるよう手配する役目をそのまま担って今に至る。
ルージュも乗り移った者だ。人の体はどこから手配しているかは不明だが、死体を使っているらしい。乗り移る順番はまちまちで、見た目と精神が似通った体のほうが上手く馴染むらしい。今も順番を古くから待っている者達がいるらしい。
らしい、らしい、という噂や技術の話ばかりで、実のところルージュも詳しくはわからない。知っているのはこの組織が「館」と呼ばれている事だけだ。
どこに行くのか見当も付かないまま待ち合わせの駅前に到着。
既にカイトは待っていた。先程よりは明るい色合いの服装でどこにでもいる人間の若者という出で立ちだ。
海神の次男であるカイトとは、館の敷地内に住んでいるので当然顔は知っているし話したことはあるのだがいつも挨拶程度。あとは誰かを探していたりのときで、二言三言交わした事があっただけだった。だから今回の誘いは珍しい。
「やあ、待ちくたびれちゃったよ。もしや来れないと思って不安になっちゃった」
「二時間ここに居たんですか」
「まずは電車に乗ろうか。・・・乗り方はわかるね?」
「はい。勿論」
そう返すと満足したように頷き改札へ続く階段のほうへ向かった。
「最初の目的地は住宅街にある雑貨屋さん。なぜか人気がある。特に大きい最寄駅でもないし駅から少し遠いのに、だよ。気になる」
「はあ・・・」
電車が来るまでの会話がこうだ。降りる人を待ってそのあと乗り込む。電車内は比較的空いていた。ドアの近くに二人は居場所を決め、ルージュは外を眺めた。ふとやや後ろにいるカイトが気になって覗いてみると、あちらもこちらに気付き「ふっふっふ」という声は出ていないものの、そういう顔付きをしてきた。どういう反応なのかはわからない。
小売店が駅前に少しだけあるという、住宅街の普通の駅だった。そこからまた歩いて目的の雑貨屋へ向かう。カイトは携帯端末を確認していたがすぐに行く方向が決まった。事前に調べていたようだ。
線路と平行するようなまっすぐな道だった。隣の駅との真ん中あたりまで歩いただろうか。そこに雑貨屋はあった。建物は白く、少しの植物で彩られていた。反して中は暗く、雑貨がひしめき合っていた。どれも非日常を演出する変わった物ばかりだった。具体的には魔法道具みたいな。創作物の中にしか登場しないような華やかで煌めいていて、日常には全く必要のない物。でも人の心が躍るのだろうというのはルージュにもわかった。
店内に品物は多いものの狭いのですぐに見終わってしまった。気が付くとカイトは外にいた。何も買わなかったようだ。良いなと思った物はあったが買うまでは行かずルージュも店を出た。
「次はどこに行くの?」
「次はね・・・」
例の謎の笑みを浮かべて次の行き先を告げられた。
4
「いえ、あの・・・」
「なんだ」
「うーん、言いたい事はあるんですけど、どう言ったらいいか考えています」
「いいよ。はっきり言うがいい」
「こんな事して意味あるの」
ルージュは素に近いように、ぶっきらぼうに言った。
「だって、相手に感謝しろとは言わないけど、全然報われないし」
「ふっ・・・。お前、我々のしていることをいつもそんな風に思ってたのか」
明らかに馬鹿にした言い方だったので振り返った。
「普通、それ言わないだろ」
そう言って笑う。犬の顔で笑っているというのは間違っているかもしれないが、人と同じような思考を持つ彼は確かに笑っている。
「お前、変わっていると言われないか」
それは、言ってくれる相手が存在しないと起きない現象で、そして「失礼」に属する言葉を言ってもいいという親しさを持つ相手が存在しなくてはならず、そして彼女には存在しない。しかしこれを言うと彼はますます自分の発言に自信を持つだろう。そのくらいは予測出来る。
そうこう考えている間に、その沈黙をどう取ったかはわからないが彼はまた笑った。上司にあたる存在だがあまりに失礼ではないだろうか。
そして、「失礼」な扱いをしてもいいと認識されたことが心地良かった。
以前見かけた時と印象が違った。あれは仕事中だったので仕方がないとはいえ、いざ自分には違う面を見せてくれて、それは、なんという感情かよくわからないが、悪い気分ではなかった。
しばらくして、この仕事場が閉鎖することになるという知らせが正式に出た。
以前からその噂はあった。そのため早い人はもう次の仕事を探していた。もしくは決まって辞めて行った。閉鎖の直前は数人しか残っていなかった。
「次の仕事は探したか?」
「いえ、まだです」
笑いながら答えた。
仕事なのに楽しいと思えるこの時間に、別の事を頭の中に入れたくなかった。もう就職活動をしなくては収入が途切れる。貯金もそんなには無い。
でも不思議と危機感は感じられなかった。
最終日は事務所の撤収作業。これも捨ててしまうのかという物まで全て、ありとあらゆる物を捨てまくった。最後には制服も捨てて帰った。
次の仕事が決まるまで遊べると思った。
仕事が終わった解放感からか昼まで寝て、その日は西の端の朽ちた社にふたりは来た。
眷属二体がこの神域の入り口に陣取っていたらしいがその像は片方が崩れている。
もう片方は何も乗っていない。台座だけだ。
「他のお仲間はどうしたの」
「あやつらは・・・逃がした」
遠い眼をしている。
「ここから解放した。あやつらならばどこでも生きていけよう」
社の近くまで来て彼が言った。
「そこを見ろ」
祠の中を覗く。以前と同じで中は空っぽ、神が宿るという依代がない。それがないと神に属する者は土地に留まることが出来ない。どんなものでも良いわけではない。
「ここの神はとっくに死んでいる」
「そう・・・」
「遠からずどこか他の地へ行かなければならない」
そう言ってこちらの顔を窺う。
「まあ、すぐにではないが」
多分自分は安堵の感情を外に出してしまっただろう。
「はあ。暗くなってきたな」
「今夜ここに居ていい?」
「おいおい・・・。寒いぞ?」
「こうしていれば大丈夫」
ルージュは跪いて、思い切って犬の首に腕を回した。
「なんだ、お前、私のことが好きなのか?」
肯定出来ない。
それはとても出来ない。
だから心底困って、苦笑してます、という顔をした。
何日かに一度会い、それから数日ぼんやり過ごし、また会う。
地元なのに行ったことのないという大きな公園へ行ってみたり、朝の海を見に行き、夜の海の波を聞いた。終電の終わった線路沿いを話しながら何時間も歩いたり、いつも通り過ぎていた店にも入った。近場だけだがどんな所も行った。
5
相変わらずの深夜に寝る生活。明け方に熱が出るのだ。のどから熱が発せられているようで、それは決まって明け方だけ。日中は至って健康でその他はどこも悪くない。
しかし耐えきれず診てもらうと原因は、遠回りに不摂生が原因と言われた。
そういえばとても体が重い。気分や体調ではなく、物理的に。
人の体は面倒くさいのを忘れていた。
腫瘍も出来ているようで、これを切除しなくてはならない。
彼とはもう何日会っていないだろう。あちらから連絡もない。
これまでで一番離れている気がした。実際そう。
多分、心も。
なぜかそう思っていた。
仕事を辞めて2ヶ月が過ぎている。
次の仕事は、探そうともしていない。
体調が悪いということもあって、もう潮時かという罪悪感や色々な考えがぐるぐる湧いてきた。この数日何をしていたかと訊かれて「何も」と答えると、きっと落胆や軽蔑されるのだろうなと予想した。
気になってくると連絡をしたくなるもので、連絡してみると「久しぶり」と返ってきた。
いつものぼんやりとした時間に会うことになった。
会えるのは嬉しい。楽しみだった。
「何してました?」
向かいの席から笑って答えてくれた。
「色々。そちらも何してた? 次の仕事は?」
色々とはなんだろう。教えてはくれないだろうかと思う。
「いえ、まだ・・・。病院に行ってました」
「病院? どうした?」
「実は、明け方熱が出るんです。明け方だけです。あ、あと、腫瘍があって。悪性ではないです。でも取らないと無くなりはしないって。人の体って本当面倒」
「そうか。あれか・・・。結構悪かったのだな。いや、実はいつ言おうと思っていたのだ」
「なっ」
顔が紅潮していくのがわかった。
「最初に言ってくれれば良かったのに!」
彼は困ったような笑った顔をした。
「いや・・・傷付くと思って」
「そういうのは、言ってください!」
どうして一番最初の時に言ってくれなかったのだ。自分ではわかりづらい箇所なのに。最悪ではないにしろ、慣れていない体で普通ではない事態に陥っているに。
体裁や綺麗さを気にして言わない、指摘してくれない、一緒に解決しようとしない。
もっと最悪な事態になるということに気付かない?
そんな筈はないだろう。彼は馬鹿ではない。
なるほど。この「良い状態」を壊したくないのだな、と思い付く。
これが彼との関係。
良い所しか見せないし、見ない。
ついでに自分の事情や深い所を見せてはくれない。
ぼんやりな時間のぼんやりな場所のレストラン。
このふたりの関係を、他に誰が知っている?
それから手術で(三十分ほどで終わった)具合が悪くさらに日にちが経過する。
落ち着いたら連絡が来て、また会うことになった。
夕方が始まった時間。平日なので街はまだそんなに混んでいない。
「この地を去ることに決めたよ」
ルージュは内心衝撃を受けながら表面上は静かに受け止めた。
「新しい地を見付けたんだ。良かったですね」
「この辺りの居場所のない者たちも一緒に行くことにした。楽しみだよ」
ルージュはジュースを飲んだ仕草をする。ストローをゆっくり回す。氷が音を立てて回る。
「もともと私はこの地ではあまり力がなくてね」
人の信仰心で力を増すのが神に属する者。神属の力が弱いということは、ここの人間達は神への信仰が低いらしい。
でも生きている。普通に生活が出来ている。
それは人間が、神がいなくても生きていけることに他ならない。
「しかしそれは良いことだ」
その昔、祠を破壊した人間がいてその者が死んだ頃から力が弱まったという。
「一応先に言っておくが、そやつは本当に単なる事故死だ」
店を出てぼんやりと歩く。前より、並ぶ距離が遠い。
どこに歩いているかは話し合っていない。けれど足はどこかへ向かっている。
民家の庭先で剪定した枝を束ねている男性がいた。老化し動かなくなってきた体をゆっくりそれでも動かし、束ねる作業をしている。
彼の歩みがゆっくりになる。
ルージュは少し離れて歩き、それを見ていた。
最初に言っていた手伝うって、何をだろう。
何をどうやって手伝うというのだろう。だってあなたは。
そしてルージュは歩き出した。
「お手伝いさせてください」
老人に話しかけた。犬のほうには視線を合わせない。
ほどなくしてその作業は終わった。
「これまでのことを糧に、お前は成長すればいい」
「こんなことをしたって、人間は何も変わらない」
「ここの人間達に礼がしたいと、何かしたいと思うのが普通ではないのか?」
「でもあなたの声は聴こえていないじゃない!」
「ではどうすればいいのだ?」
「別に、何も。しなくてもいいじゃない。科学や文明がもっと進むとそんなものを信じる人間はこの先絶対少なくなる。怖れながらも、自分達の生活に楽しくなって、忙しくなって、遂には信仰の対象も変わる」
「では、今生きている彼等はどうしろと。変えられない者たちを見捨てろというのか」
「彼等はもうどうにもならない。永い寿命を持つ神属だというのに、もっと大きな流れを考えることが出来るのに、どうしてそんなに待てないの」
「彼等の時間は短いのだ。あっという間に老いてしまう」
「私達だって、転機を迎えている。そのうち同じになる。だから何もしなくていいじゃない」
「そんな寂しいことを言わないでくれ。そこは直したほうがいいぞ」
「・・・」
「本当はあの時、何か出来ることはないか、聞いて欲しかった」
「・・・」
「もうすぐ、もうすぐ出発する。あいつが見付かったのだ。今度こそ・・・」
天を仰いで言った。
「お前はきっと、この先もっと仕事をして」
「・・・」
言いながら先を歩いている。
「そこで好きな相手が出来て」
「・・・」
地面を見ていたが、こちらを向いているのがわかる。
「大丈夫。お前はこのさき生きていける」
「・・・っ」
口が、手が、動かない。
それなのに目からは涙が止まらず。
「お前のそんなところが好きだったよ」
足は無意識に前後に動いて歩行を完成させている。
全く別の誰かが動かしているのではないか。
頭の中は逆に冴えている。冷め切っている。
なのに、
それなのに、
外部に自分の感情を表すことが出来ない。
言いたいことを言わせていることに腹が立ってくる。
もうそのまま自分の世界に浸って、言うことを言って、
さっさと消えてください。
ルージュはもう帰ることにした。
それなのに彼は、嫌になることに、後をついて来た。
どうせ夜道を心配とか、さっきの事が心配だとか。
聴きたくない。
そんな安い感情は要らない。欲しいものはそれではない。
それがわかったのだから、もう彼に用は無かった。
時間の無駄というほど。
それくらい瞬時に切り替えた。
切り替えることが出来た。
嘘ではない。
嘘ではないけれど、しばらく泣くことになるだろう。
大抵、そうだと知るのはもっと後になる。
自分が向けた感情と同じ種類を、同じ強さで
今後誰か向けてくれるだろうか。
現れるだろうか。
それなのにこんな姿になってまで。
この世界にいる意味はあるのか?
ルージュは走り出した。
あちらは走っただろうか。だけど振り向かない。確認はしない。
角をめちゃくちゃ曲がり、一軒の民家に気が付く。
成長して道路に庭木がはみ出ていた。そこに出来た影にしゃがむ。
息を殺す。
動悸は上がっていたけれど恐ろしいほどに早く鎮めることが出来た。
何かが通り過ぎる音が、したように感じた。
自分で振り切っておいて、この頭脳と思考と感情は、まだそれを想像するのか。
背後で物音がした。
民家の居間の大きな窓から人が、こちらを見ている。
家の灯りで逆光になっていて、表情はわからないが男だ。
面倒な眼球だと思考する。
騒ぐな、と言うつもりだったけれどあちらは何も言わない。
そうだろう。涙を流して酷い顔になっているからだ。
「大丈夫ですか?」
返事に微笑んで、そこから走った。
もちろん注意を払った。
けれど誰にも遭遇しない。
疲れて歩き出す。
静かに家路へ方向を転換した。
あれだけ走ったのにどこにいるかおおよそわかる。
道は繋がっている。
めちゃくちゃに行っても、どこへ行っても。
また考える。
脳がまた考えている。
何をどう考えて行動しても、後悔しか生まれないのは目に見えていた。
でも。
走った。
西へ。
走って走って。走った。
光が見える。
まだ、間に合った。
朽ちた社の傍で。淡く。
もう消えそうだった。
声は、出せなかった。
叫べば届きそうだったけどこの期に及んで、悔しくて。
手を伸ばす。
全然届きそうにもない距離で。
あっけなくそれは消えてしまった。
辺りは深淵の闇。少しの灯りもない。
空以外には。
要らない、というより、あちらから要らないと言われたのだ。
余地などない。
最初から無かったのだ。
精神の中を確認する。
もう手遅れの部分もあるけれど、大半は無事だった。
私に、神はいない。
1
人の思考を持つ者は、人と変わらないのではないか―――
昔、誰かが言った。
海。遠くに陸が見える。
彼女は服を着たまま浮かんでいた。今日は靴まで履いたままだ。
波に揺られ、何をするでもなく、頭の中でも仕事をせず漂っていた。
そこに声が届く。
声と共に不鮮明ながら、映像も脳内に浮かぶ。
しかしそれはすぐに消える。
仕事だ。
「わかった」
声に出し、簡単に頷く。
別に断ってもいいのだ。
だがしかし、断る権利も道理も立場もない、と彼女は常に腹の底で思っていた。
ここからだとどのくらい時間がかかるか考える。溜め息しか出てこない。
ようやく反転し、泳ぎ始める。
ここは一人になりたい時に来るのだった。
陸の上はどこかしら、誰かがいる。
陸の上は人がたくさんいる。
肩にかけていた布を頭に巻いた。彼女の赤い髪色に、初対面の人はふと目を向ける。最近は退色し茶色に寄っているが、それがなんとなく気になるのだ。だから人の前に出るときはそうしている。
目の前の林から気配がした。迎えだとすぐにわかる。映像に出てきた奴だ。今回の依頼主。全体的に白い。
互いを認識する。付いて来いとばかりにすぐに背を向けられた。
「言っておくけど」
先手をとる。
「私は普通の人間なんだけど」
「わかっている」
犬が、首だけこちらに向けて言った。
「あ、そう」
聞いているなら話は早い。それをわかった上での自分への指名なんて。一体どんなくだらない内容かと考えたが、やめる。
薄暗い森の中を歩く。
目の前の人物は樹の根を避けつつ器用に歩いている。四本足は歩きやすそうだ。それについて行く。
第一印象は犬。けれど犬よりは大きくどちらかといえば狼に近い。
「まずは村を案内しよう」
村へ方向を向ける。
礼儀だろうと先にされる前に名乗った。
「ルージュと言います。あなたは何と呼べば良いですか」
「名は・・・。なんとでも呼ぶがいい」
ルージュは以前から彼を知っている。
「どうだ、こちら側の生活には慣れたか? 色々やっているのだろう?」
「はい、大体やったと思います。だけど時々有り得ない習慣に遭う」
「ははは。あれは、そう、理解しがたい。理不尽で意味が不明だな。そしてそれを普通に、生活に溶け込んで価値観として植わっているときたものだ。人間とはつくづく」
何か思うところがあったのか、そこで一旦言葉を切った。
「今までどんな仕事を請け負った?」
自分のことを知っているのか。
言葉をきちんと交わすのも二人きりになるのも初めてだった。
ルージュが答えようと言葉を整頓していると、彼は答えを聞く前に言い出した。
「お、ふむ。あの石をどかしてはくれぬか」
彼女が物体を確認していると、
「なにぶん、この様な体なもので」
と言う。尻尾が一度、大きく揺れた。
鼻から息の洩れる音がした。自分の冗談で笑ったのかもしれない。
見ると民家の庭石が道にはみ出ている。持ち上げることは出来ない大きなものだが動かせないものではない。引き摺って押してなんとか動かし、他の石と並べて置いた。彼女の体で動かすにはそれなりの力が必要で、地面に這いつくばって全身の力を込めたのだ。その一連の作業が終わり、彼に向き直ると話始めた。
「ありがとう。とても助かった。ここは年寄りが多いからな。だから我々がやれる範囲で出来ることをやってあげたいのだ」
「それは、義務? あなたがここを管理しているから? それとも、愛着?」
「両方だよ。というより、そういうことはあまり考えたことはないがな」
そして最初に向かっていた方向に体を動かした。この辺の動きは普通の犬そのものだ。
「この村の、ここからちょうど反対側になるが、一番西の端に祠があって、そこが根城だ。まずはそこに向かうとしよう。話はそれからだ。何、すぐだ」
ということなので歩く。彼の後ろをついて行った。
この村は海からの一本道沿いに家が建てられた歴史のようで、その家の群集を離れたら畑ばかりだ。砂浜はあるがそういえば港は見ていない。塩害があるだろうに、畑をやっているのかとにわかに信じがたかった。
工場の様な場所の前を通った。そこに女性たちの集まりがあった。
大きな段ボールがある。それを皆で開けて中を見ているのだ。
声が大きいので会話が聞き取れた。
なんでも、中に入れる部品が余ったそうだ。
つまり、入っていない箱があるということ。
犬が立ち止まる。
「いや、いい。お前は先に行っていろ。私は、手伝ってから行く」
「・・・」
「迷いはしないさ。そんなに何もない」
振り返って言い終えるとあちらに向かって行ってしまった。
ルージュは黙って、祠へ向かった。
祠に着いた。
人家が終わり、もう村の終わりという少し手前。短い草だけの少し広い空間にそれはあった。
その空間を守る門番だと思われる石像が2体。片方は崩れていた。
小さい祠の両開きの扉が今にも取れそうになっていた。
中を覗く。何も入っていない。
時刻は夕暮れに近づいていて、今日の作業はもう出来そうになかった。
少し待ってみたが彼は来ない。更に待った。
その間、近くを通ったのは人間二人で、どちらも老人だった。
夕日の色が無くなり黒が混じってきた頃になったので帰ることにした。
2
次の日、普通に出勤。
「それでは作業の続きをしよう。やることは沢山あるのでな」
そこは普通の部品工場で、働いている者の大半は人だが、ルージュと同じような類もいるのだ。大体が期限の付いた雇用で、しばらくするとメンバーが入れ替わってしまう。それでも作業にはそこまで支障は出ない。そんな簡単な仕事。コミュニケーションが必要不可欠、といえばそれまで。それだけあればここではやっていける。
そうしてしばらく働き始めて、通勤も着替えにかかる時間も慣れてきた頃にそれは起きた。
ロッカーの上に飲み物の缶が乗っていて、それにケチを付けられたのだ。
ゴミを処分しろ、と。
あなたがコーヒーを飲んでいたのを見た人がいる、と言われた。言ってきたのはロッカー室の中で人の女だ。一緒に頷く女を後ろに連れていた。
まったくの誤解で、それは誰がどう見てもかなり以前から存在している埃の埋積量で、もちろんルージュの指紋すら付いていない。
飲んでいるところを見た奴を連れてこい、と思ったが無駄だろう。
あまりの馬鹿馬鹿しさに呆れて、言葉が出て来なかった。
人はあそこまで馬鹿な生き物か?と。
ルージュは決してそれにさわらなかった。休憩時間も細心の注意を払い、その者たちとその関係者に近づかない。休憩場所も変えなくてはならなかった。もっと億劫だったのは勤務時間が終わり、帰る時。ロッカーで会わないよう、時間をずらさなくてはならない。居残るという手段をとった。これはさすがに時間の無駄だったがどうしようもなく、職場でだらだらと時間を消費した。
そうすれば数日で目に留まる。
他者に話せるという解放感からか彼に馬鹿正直に話してしまった。
「嫌がらせ?」
犬は顰めたでも笑っているでもない表情で言った。
「そう。女ではよくあること」
なんでもない風に見せてこの話題を終わらせた。携帯端末を見る振りをする。
彼はそのまま帰らず、そこに留まっていた。近くではない。けれど自分達の作業場のいつもの範囲だった。彼も何かで時間を潰していた。
適度な時間が経過してルージュは立ち上がる。
「帰るのか?」
「はい、お疲れ様でした」
「お疲れ」
次の日も次の日も。彼は一緒に居残った。
特に会話するでもなく。夕方の光が差し込む誰もいない作業場で。
そうして遂に、出口で遭遇する日が来た。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
「歩き?」
「ええ、そうです」
「あっち?」
「あっちです」
ふたりは歩き出した。いつもよりかなり速度が遅い。
ひとりの時は速くなる、ということがわかった。
その帰りは、今までどんな仕事をしてきたか訊かれた。決定的な沈黙はない、というよりもあちらがあれこれ話を出してくれたのだ。ルージュは答えるばかり。色々こちらも訊きたい筈なのにどうにも、訊いて良いものか、言葉が出てこなかった。
あの本が面白い、という話。中古本屋を巡る話。
どこそこの本屋は品揃えが良いなどという、そんな実の無い話をする。
でも数日後でも覚えていて、それを話題に出してくれる。
それが嬉しかった。
3
その日も一緒に帰り道を歩いていた。最寄り駅までの住宅街の狭い道の途中に、ひっそりある神域に大きな樹があるのだ。その樹が実は気になっていた。
「ここからの角度が好きなんですよ」
と、道の反対側に移動して身振り手振りで説明する。
昔読んだ本に似ているな、とルージュは思ったがしかし題名が思い出せない。
思い出すことが出来そうだったので更に深く考え始めたとき、
「孤独の星・・・」
「えっ」
自覚出来るほどに速く首が動いた。
「この前読んだ本に、似ていてな。それがまあ酷いといえば酷いが後半のあの怒涛の」
「知ってる! 自分が何も得しなくても得してもお礼なんて要らない、それが欲しいんじゃない、自分のしたいことをしているだけ―――」
その星は星でも、
「「恒星だった」」
たった一つだけの輝く星。
当たり前に、毎日誰もの隣に存在しているのに誰も感謝しない。
そう比喩された主人公。
この設定に当時は心震えたものだ。こういうものを「人」は考える。
そして自分はそれを感じ取ることが出来る。上位という意味では決してない。
我々より下だと刷り込まれ続けてきた人という生き物に、自分はむしろ感覚が近いのだと彼女は思っていた。
そう感じた。だから。
ここにいる。
こうして、これをやっているのだ。
この目の前の犬もあれを知っているとは。
この数秒の、何か成しとげたような奇妙な一体感は。
これも人にとても近い感覚だと思う。
これを感じ取れない者はきっとこの先、生きてはいけない。
この道を自分は選んだ。
この事を彼は共感してくれるだろうか。
「何、お前も好きなのか。奇遇だな。それは・・・。いや、今までそんな仲間がいなかったのでな。ああ、これはどうしたものか」
犬の姿の彼は、見た目ではわからないがあれこれ考えているらしく、何も言わずにルージュは待った。
「そうだ、嬉しいのだな」
「私は最近買ったばかりでまだ全部は」
「そうか。あれ、あそこの場面が面白くてだな・・・おっとネタバレはよしておこう。読み終えたらまた・・・」
慌てる姿も良かった。
「読み終えたか?」
「まだ。昨日は疲れて眠ってしまって」
そして次の日も訊いてきた。が、後半の一番盛り上がる手前で自制したのだ。その後の残りページ数量がどう目算しても、寝る時間までに読み切れるものではなかった。だからその前でやめたのだ。ぐったり疲れた状態で仕事はしたくない。
自制出来る時とそうでない時があるが、その時は奇跡的に出来た。これを自慢したいが相手が相手なのでしない。馬鹿に見える。だけどもう、そう見えていてもおかしくないと気付く。すでに頭の悪そうな会話しかしていない。はしゃぎすぎだ。自分はもっと静かで大人しく、無口なほうだと思っていたけどどうやらこの動物の姿の彼の前では違うらしい。
「そうか、私もまだだ」
それは嘘だろう。あんなに熱心に打ち込んでいて、あそこまで後半の展開を知っていたのに読み終えていないなんて。自分と速度を合わせてくれているのだろうか。
でも訊いても本当のことは話してくれないだろう。そして本当か確かめる術はない。試しに自分が読み終えたあとにこちらから訊いてみると、「まだ」の返事が返ってきた。
読み終えた、と言われた時期が同じになったのでそこでまた盛り上がる。この手の趣味が同じ者に会うのは初めてではないが、いつも少しずれてしまって一致するという機会は初めてだった。ちょっとした発見や考察を語り合うのはとても貴重な体験だった。
一緒に帰り、その足で食べ物を買って公園でおしゃべりしながら、暗くなるまで。
本当に色々。もうよくは覚えていない。
それくらい、他愛もない事ばかり話した。
繰り返すうちに場所も定番化してくる。
いつもの公園で、場所はブランコだった。
週末ということでいつもより時間が遅かった。そして熱中しすぎていたのだろう。
それに気付かなかった。
近所の住人が来て、驚くべきことに寝間着だった、そして、注意されたのだ。
話し声が大きいと。
謝罪しその場は解散。注意されるほどに大きい声で話していたとは、注意されるまで気付かなかった。さすがにこれにはふたりで苦笑してしまった。
もちろん気まずい空気の方が色濃かったが、お互いに顔を見合わる。苦笑。反省はするにしろ、悪い空気にはならなかった。同じ経験を共有したいたずらっ子のような顔を返してくれた彼へ、自分の何かが変わったと感じた。